昨年のパラリンピック開会式で、ひときわ話題を集めたのが、ギタリストの布袋寅泰さんらを乗せたド派手なデコトラ(デコレーション・トラックの略)。各国のアスリートや記者を魅了し、日本のカルチャーのひとつとして海外でも称賛された。

 デコトラが日本で最初にブームになったのは、映画「トラック野郎」シリーズが放映された1970年代。それから時を経て、映画に登場した伝説の「一番星号」の修復が完了し、今、再びデコトラに注目が集まっている。そこで、国内最大のデコトラ団体「全国哥麿会」会長を長年務め、自らも20代の頃からデコトラに乗り続けているという田島順市氏(74歳)に、その魅力と「一番星号」完全復活までの軌跡をお聞きした。(全3回の1回目/#2に続く

完全復活した伝説のデコトラ「一番星号」と、哥麿会の田島順市会長

デコトラは故郷を原点にして走っている

――パラリンピックでは眩しいぐらいのデコトラが登場して、会場の選手たちも驚いていましたね。ここ数年、グッチのCMやイギリスの博物館で紹介されるなど、海外でも人気を呼んでいますが、日本のデコトラはいつ頃から始まったんですか?

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田島 戦後、ちょっとしてからじゃねえかな。今みたいに塩害に強い車があるわけじゃないから、東北や日本海のトラックって、潮風とか雪でボディがすぐサビちゃう。そのサビた部分に模様のあるステンレスを貼って補修したらしいんだ。

――もともとは補修が目的だったんですね。

田島 そう。そしたら、それがカッコよくて、飾ることが目的になっていったんだろうね。やっぱり、長距離ドライバーは、全国あちこち行くからなかなか家には帰れないの。座席で寝泊まりしながら、全国の漁港や産地を回る。トラックが家代わりというか、もう自分の城だよね。

 だから、ボディに故郷や家族の名前を入れたり、「三河の〇〇」や「浪花の〇〇」とかアンドンをつけたり。いわば故郷の宣伝カーみたいなもんで、うちの町にはこういう建物があるとか、こんなお祭があるとか。だからデコトラは故郷を原点にして走っているんだ。

 

――なるほど。どんな人が乗っているのか、デコトラを見れば分かるんですね。

田島 そうだね。そのお披露目の舞台は東京なんだよ。野菜でも魚でも田舎もんが都会の市場に荷物を持っていくでしょ。だから、東京っていうのは、自分のデコトラを見せ合う場なんだよね。それに真っ暗な田舎と違って夜でもネオンがきれいだがね。その東京の夜に負けねえように、自分のトラックを飾るんだ。

「トラック野郎」の大ヒット

デコトラが広く世間に知られることになったのは、1964年の東京オリンピックから11年後の75年から始まった映画「トラック野郎」シリーズだ。主人公の桃次郎に扮した今は亡き俳優の菅原文太さんや相棒役の愛川欽也さんなどが出演し、トラック野郎の友情をコミカルに描いたロードムービーである。ド派手なトラックによる過激なカーアクションが人気を呼び、5年間で全10作品が放映された。

――映画の大ヒットで、トラック運転手やデコトラを始める人は増えましたか?

田島 ああ、映画がヒットしてからトラック運転手になる奴や、そのトラックを飾ってデコトラを始める奴もものすごく増えた。映画がスタートして、撮影協力のためのデコトラ団体「哥麿会」が結成されたんだけど、そこに入会すると、自分のトラックが映るチャンスがある。ずいぶん、後のほうだけど、俺も入れてもらったんだ。

――当時のデコトラ乗りは、映画に出ることが憧れだったんですね。