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「留置場に入れられたから助けてくれ」

――素敵なお話ですが、会長として苦労は絶えなかったのでは?

田島 もう、大変なことしかねえよ!(笑) 3回くらい本当に殺されそうになった。

――えっ、何で!?

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田島 3000人も全国に会員がいるとよ、中にはどうしようもない奴もいる。「悪い奴ともめて拘束されているから来てくれ」とか「留置場に入れられたから助けてくれ」とか。人間、弱いもんで、悪いことをしたくせに捕まれば「助けてくれ」なんて言うんだな。

 一度は、巻き込まれた俺自身が脅迫されて、うちの家を盾を持った機動隊が守りに来たこともあったよ。もっとも助けてやりたくても、助けられねえ時もあった。テレビドラマみたいにかっこいいことなんて、現実にはできねえんだ。

 

――会長するにも命がけとは。デコトラを見せあってワイワイする楽しい会だと思っていました。

田島 表向きは楽しくていいんだよ。俺一人で収まるなら、会員は知らなくていいんだ。まあ、俺は子供のころ病気になってずっと孤独だったから、その時のことを思えば、自分の身に何があってもいいかな、って。

 もともとはさ、誰でも良い素質を持っているんだよ。悪い奴でも赤ん坊の時はみんなかわいいだろうが。そっから環境とか親とか、いろんな状況が絡み合って悪くなったりするんだ。でもよ、脇道にそれてしまっても、産まれた時から持っている素質に気が付けば俺は立ち直れると思ってよ。

被災地支援を始めたきっかけ

――現在、哥麿会では、被災地支援が活動の大きな柱になっているとお聞きしました。何かきっかけがあったんですか?

田島 最初は1991年の雲仙普賢岳の大火砕流の時だよね。各支部で集めた募金を普賢岳の被災者に持ってったの。それが被災地支援を始めた最初かな。哥麿会は全国組織で、長崎にも会員がいたから何かできねえかと。ただ、こん時は募金だけ。

 本格的にボランティアするようになったのは、その4年後の阪神・淡路大震災からだね。俺たちだからこそ貢献できることはあるんじゃねえかと。俺が行くとなれば誰かついてくるから、まず旗を揚げることが大事だと思ってよ。

――トラック運転手が集まる会だからこそできる支援とは?

田島 そん時、俺は関東の会員と7、8台のトラックで大量に食糧を積んで、神戸に2週間、行ったんだ。大規模な炊き出しをしたり、タンクローリーを持っていって姫路で水を入れて避難所をあちこち回って水を配ることもできた。この後は、2003年の十勝沖地震から2007年の能登半島地震とか、1998年の新潟豪雨、2018年の西日本の水害とか、テレビでニュースになるような大災害にはだいたい行ったと思うよ。

 何しろ、ちょっとグズグズしてると「哥麿会、いつ来るんですか?」って連絡が来ちまうんだよね(笑)。会員じゃなくて、被災地に哥麿会が真っ先にやってくるのを知ってる、一般の人から。

 
 

――被災者が待ってるんですね。すぐに被災地に入れるんですか?

田島 そう。俺たちは震災や水害があった2、3日後には現地に入ってんだ。その時点ではたいてい自衛隊か警察しか現地にいないんだけど、うちは全国に会員がいるから、被災地の近くの支部のトラックが駆けつけることができる。だから警察や自衛隊は俺たちの活動を知っているし、通行止めの道でも哥麿会のデコトラと分かれば「おつかれさまです!」って通してくれるの。

――顔パスなんですね。一番、多く行かれたところはどこですか?

田島 俺自身は東日本大震災だよね。これは東北3県を主体に10年間で100回は行ったんじゃねえかな。炊き出し行ったり慰問に行ったり、本当にいろいろな形で。

 さっきも言ったけどよ、元暴走族だったり、人生崩れた奴もうちの会員に多いんだけど、被災地に行って汗をかいて、「ありがとう」って言われれば誰でも嬉しいよな。認められて自分の居場所ができれば、曲がった奴でもまっすぐに生きようと思うようになるんだ。だから若い会員も声をかけて連れていく。