1ページ目から読む
2/4ページ目

日本での暮らしは楽ではなかった

 メイさんはマニラで生まれ、6歳で父親を亡くした。10人きょうだいの末っ子。母親は昼も夜も働いた。自身は地元男性と暮らしていた17歳の時、長男を産んだ。その2年後、次男を妊娠。この男性とは結局、結婚せずに別れた。

 20歳でギリシャの首都アテネに出稼ぎに行き、飲食店のショーで踊る仕事をした。マニラで練習した5、6人が一緒に派遣され、踊った。半年ほど滞在する仕事を2回。フィリピンではほかに仕事がほとんどなく、兄や姉たちと貧しい生活を続けた。不在がちな姉のひとりに代わって面倒を見ていたおいも養子に入れ、三男とした。

 転機は24歳の時に訪れた。フィリピンに何度も来ていた駒ケ根市の10歳年上の男性と知り合った。マニラで飲食店を経営する日本人と結婚していた友人に紹介された。食事をごちそうになるうちに引かれ、96年に25歳で結婚。夫が日本から定期的に仕送りしてくれ、たまにフィリピンに来る生活が3年ほど続いた後、駒ケ根での暮らしを始めた。01年、長女が生まれた。

ADVERTISEMENT

 学校に通っていたため、当初はフィリピンに残していた息子たちも、「将来を考え、貯金もする真面目な日本人」のようにしっかりとした生活を送ってほしいと願い、夫の理解も得て順次呼び寄せた。

 ◇

 ただ日本での実際の暮らしは楽ではなかった。フィリピンは月3万円もあれば暮らせるが、そうはいかない。

 体の不自由な義母と同居し、栄養バランスを考えた日本食を作ることは難題だった。日本に来る前、夫は母親の状態まで話さなかった。3年ほど一緒に暮らし、義母は近くの施設に移った。

 夫の葬儀に、お金を貸しているという知人が何人も現れた。借金をしてまでフィリピンにゴルフやカジノをしに来ていたことを初めて知った。

 安定した暮らしを求めた日本人との結婚――。現実は違った。携帯電話や車の部品の検査や組み立てなど、駒ケ根市周辺の工場を転々としながら必死で働いた。今は介護職員として勤務する。

 もし、来日する前の自分に語り掛けることができるのならこう言いたい。「甘くない。日本に行くな」