プーチンの生い立ち
プーチンは1952年10月7日、レニングラード(現サンクトペテルブルク)で生まれた。父のウラジーミルは海軍兵士で、退役後車両製造工場に勤務。母のマリアも工場労働者で、2人は98、99年に相次いで亡くなった。父方の祖父はレーニンとスターリンの別荘で料理人を務めた。
プーチンには、2人の兄がいたが、1人は生後すぐ亡くなり、もう1人も大戦中のドイツ軍によるレニングラード包囲戦の最中に死んだ。父は戦場で重傷を負い、母も900日に及んだ包囲戦で衰弱した。プーチンが誕生したのは、2人が41歳の時だった。
女性ジャーナリスト、マーシャ・ガッセンは、米誌バニティー・フェア(08年10月号)に寄稿したプーチンの人物論「死せる魂」で、「母のマリアは100万人以上の死者を出したレニングラード包囲戦の飢餓と窮状でひどく体調を崩した。プーチンの幼児のころを知る者は誰もいない」ことから、プーチンは養子だったという推測が成り立つと書いた。
ガッセンは「養子は今日のロシアではさほど恥ずべき秘密ではないが、両親はそのことを息子に言わなかったはずだ。プーチンが小さいころ、孤児院にいたとしたら、小柄な体形や少年時代の体力不足も説明がつく」としている。
大戦中の両親についてプーチンは、「母はあやうく餓死するところだった。あまりの空腹に気絶し、他の死体と並べられたこともあった。母が生き延びたのは奇跡だと思う。父は戦場でかなりの重傷を負った。何とか生き延びたが、何カ月か入院していた」とし、自分が生まれたことを「神に感謝する」と告白している。
苦境から復活する底力と勝利への執念、祖国への献身を、プーチンはドイツとの死闘を耐えた家族の物語から受け継いだかにみえる。
大統領復帰を目指していた12年1月27日、プーチンは多忙を押してペテルブルクに戻り、市解放68周年式典に出席。49万人が眠るペテルブルク郊外の共同墓地で花束を捧げたあと、記者団にぽつりと漏らした。
「私が生まれる前に死んだ兄の1人も、ここに埋葬されている」
親子3人が暮らしたのはレニングラードの5階建て集合住宅の1部屋で、台所、トイレは共同。風呂はバーニャ(銭湯)に通った。プーチンは前掲書で、主な遊び場はアパートの廊下や中庭、街頭で、階段踊り場の穴に棲むネズミを棒でいじめて遊んだと回想した。