不良からKGBになった経緯
少年時代のプーチンは真面目でも優等生でもなく、成績は中庸。遅刻が多く、生意気だった。同書では「私は不良だった。実際、チンピラやくざだった」と話している。街頭で過ごす時間が多く、よくけんかをし、ボクシングからサンボを経て、14歳の時、柔道にたどり着いた。
「柔道をしていなかったら、自分の人生がどうなっていたか分からない」
柔道に熱中したプーチンが黒帯を取ったのは18歳の時だ。学生時代、市の柔道大会決勝戦で、背負い投げを仕掛けたプーチンは、カウンターを食らって一本取られ、敗退した。しかし、次の大会では同じ相手に闘志をむき出しにして背負い投げを掛けまくり、一本勝ちで優勝したエピソードがある。一度決めたら徹底して固執する、負けず嫌いの性格なのだ。
その後猛勉強して最難関の国立レニングラード大学(現サンクトペテルブルク大学)法学部に合格。大学時代は柔道にも励み、ソ連五輪チームの手前までいった。
「私はいわば、ソ連の愛国主義的教育の生み出した純粋かつ完全な生徒だった」と告白するプーチンは、KGBに入った経緯を『第一人者』でこう明かした。
「一時期は真剣にパイロットを目指した。だが、その後『剣と盾』のようなスパイ映画や小説に、私の心はがっちりとつかまれた。全軍をもってしても不可能なことが、たった1人の活躍によって成し遂げられるのだ。私は進むべき道を決めた。スパイになろうと」
「どうすればスパイになれるか知るために、9年生の頃、KGBの支部を訪ねた。男性職員が出てきて、話を聞いてくれた。『ここで働きたいのです』と私は言った。『それはすばらしい。だが、いくつか問題があるな』と彼は言った。『まず、志願してきた者は採用しない。次に軍の出身か、大学の卒業生しか入れないんだ』。『どういう大学がいいのですか』と尋ねると、『どこでもいいんだ。まあ法学部かな』と応じた。それで決まりだった。その瞬間から、レニングラード大学法学部を受験する準備を始めた」
「大学時代を通じて、私が会ったKGB職員を待っていたが、何も起こらなかった。あきらめて検察官か弁護士になることを考えていたが、4年生の時に1人の男が近づいてきて話がしたいと言った。正体を明かさなかったが、すぐにピンときた。『君の就職について話し合いたい』と言ったからだ。次に会った時、彼は『もしも情報機関で働かないかと誘われたらどう思うかい』と尋ねた。しかし、少年の頃からこの瞬間を夢に見てきたのだと彼に打ち明けることはしなかった。『我々は向こうから近づいてくる人間を好まない』という以前の言葉を覚えていたからだ。その後は事務的に淡々と処理された」
KGBの元スパイが採用の経緯を公表することはまずない。実際には、プーチンは大学時代の2年間、KGBのインフォーマント(情報提供者)として働き、仲間を監視していたとの説もある。金回りがよく、大学でただ1人自家用車に乗っていたとの証言も残っている。