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KGBでは中佐止まり

 KGBには計16年いたが、中佐止まりだった。同僚の多くは、将軍か大佐でキャリアを終えている。同期で盟友のセルゲイ・イワノフ元国防相は英国やスウェーデンに駐在し、将軍で退役した。プーチンの評価はKGBで高くなかった。現在でも、情報機関関係者はプーチンのことを「あの中佐が……」と呼び、大佐になれなかったプーチンを揶揄する。

 2006年10月、モスクワの自宅アパートのエレベーター内で何者かに銃殺された人権派女性記者、アンナ・ポリトコフスカヤも、最後の著書でプーチン中佐を痛烈に皮肉った。

「プーチンはソビエトKGB中佐の典型だ。ゴーゴリ著『外套』の主人公、小役人のアカーキー・アカーキエビッチを彷彿とさせる。彼の世界観は階級に見合って偏狭だ。いかにも最後まで大佐になれなかった中佐らしい。好感の持てない個性の持ち主なのだ。たえず仲間を詮索するソビエト秘密警察の根性が骨の髄まで染み付いている。しかも執念深い」(『プーチニズム』NHK出版)

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©JMPA

敬愛するのはアンドロポフとゾルゲ

 プーチンは米誌タイム(07年12月31日─08年1月7日号)のインタビューで、KGB活動が大統領職に役立っているかとの質問に、「むろん一部の経歴は役立っている。KGBは自立して考えることや、客観情報の第一報と最も重要な情報をいかに入手するかを教えてくれた。情報機関で働くことで、人と一緒に仕事をする方法を学んだ」と答えた。

 実際には、16年のKGB生活はプーチンの政治意識と手法に巨大な影響を与えたはずだ。

「チェキスト」と呼ばれたソ連スパイは退職がなく、生涯チェキストといわれる。組織への忠誠心は、辞めた後も脈々と残っている。99年7月、プーチンは首相就任に際して、赤の広場にあるアンドロポフの墓に詣でて花束を捧げた。01年には、ルビャンカ広場の旧KGB本部内に、撤去されていたアンドロポフ記念銘板を再設置させた。入省時のKGB議長で、綱紀粛正、規律重視を唱えたアンドロポフは、プーチンにとって「心の師」。世代的に「アンドロポフ・チルドレン」と呼ばれる。

 もう1人、プーチンが記念碑に花束を捧げた人物が、戦前東京で大掛かりなスパイ活動を行って摘発されたソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲだった。ゾルゲの記念碑はモスクワ北西部のゾルゲ通りにあり、プーチンは大統領就任後、参謀本部情報総局(GRU)を訪ねた時、セルゲイ・イワノフ国防相らと近くのゾルゲ像に献花している。

 プーチン時代、ゾルゲら歴代スパイを讃える書籍が次々に出版された。「プーチンは著名なスパイであるゾルゲを密かに敬愛しているようだ」とKGBの元幹部が話していた。ドイツ語を操り、ドイツに住んだだけに、ドイツ国籍のスパイ・ゾルゲは気になる存在だったに違いない。

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独裁者プーチン (文春新書 861)

名越健郎

文藝春秋

2012年5月21日 発売