長年、史料を検証してきた私の実感とすれば、この時代、300人ほど集められれば相当な有力者だったと考えられます。承久の乱の折、幕府軍は二手に分かれ、さらに北陸に駐留した軍勢がいました。主力部隊を率いた北条義時の息子・泰時らの軍勢が京都に入った際には、「勇者五千」と記述されています。
二手に分かれたわけですから、単純に2倍して1万人、仮に北陸にも同数の軍勢が駐留したとすれば、さらに5000人。合計して1万5000人が実数に近いのではないでしょうか。その意味では、『吾妻鏡』の記述は10倍以上の水増しがされていることになります。
このように、合戦の歴史を記述した史料では、しばしば兵力の数は「盛りがち」なのが実際のところです。この数を鵜呑みにしたまま、合戦を分析するとおよそ実態とはかけ離れた合戦像になってしまいます。史料に書かれた合戦の場面は信頼するとしても、数字自体をそのまま受け取るわけにはいかないのです。
有力武士の動員力300という数字の根拠
もう少し、有力武士の動員力は300人くらいという数字について見ていきましょう。その数字の根拠を示せと言われてもなかなか難しいのですが、ひとつ、例として挙げるとすれば、元久2(1205)年に起きた畠山重忠の乱における兵力の数が参考になります。
この畠山重忠という武士は武蔵国の武家勢力である秩父党のリーダーとして知られ、鎌倉武士の鑑として『吾妻鏡』にも記されるほどの人物でした。
源頼朝の死後に鎌倉幕府の実権を巡って有力御家人たちの権力闘争が激化します。その過程で、北条時政やその子・義時らによって、謀反の嫌疑をかけられ討たれたのが、畠山重忠でした。
まずは重忠の嫡男・畠山重保が鶴岡八幡宮方面にいたところ、時政の手の者に討たれてしまいます。重忠自身は謀反人の討伐を行うため鎌倉へと参じるようにという命を受け、武蔵国から鎌倉へと向かいました。
まさか、自分が討たれるとは思ってもみない重忠は、二俣川に差し掛かったところで、北条義時の軍勢と出会います。そこで初めて、討伐の対象は自分であることを知るのです。重忠の「一の郎党」すなわち一番の家来である本田近常は、「我々は十分な準備ができていません。一旦、引き返しましょう」と進言しました。
しかし、重忠は「どう頑張ってもこの大軍には敵わないだろう、敵に後ろを見せるのは武士にとって末代までの恥辱であるから、腹を決めて潔く戦おう」と家来たちを鼓舞したのです。こうして、義時と重忠の軍勢は二俣川付近で激突し、激しい戦闘の上、とうとう重忠は討ち取られました。
このときの畠山の軍勢はおよそ130から140人ほどとされています。取るものもとりあえず、十分な準備ができないまま兵を率いてきたわけですから、本気になれば大体300ほどは動員できるということが推測できます。
重忠を討った義時は、鎌倉に戻り、父・時政に「重忠の軍勢は少なかった。謀反の企ては嘘に違いない」と詰め寄ったと『吾妻鏡』は伝えています。このことからも、重忠の軍勢はやはり十分な準備がされていないものだった。本気を出せばその倍くらいの兵力を動員することが可能と推測できるのです。