1ページ目から読む
2/4ページ目

承久の乱に動員された幕府軍19万人は10倍近く水増し?

『吾妻鏡』が一級史料だとしても、この数を鵜呑みにしては、合戦のリアルは見えてきません。しばしば、こうした軍記や軍記物語には、実数を無視して華々しく威勢の良い数字を誇張して記してあるのです。承久の乱に動員された幕府軍の数19万人というのも、誇大に描かれたよい例だと思います。

 歴史人口学を研究されている速水融先生という経済学者がいらっしゃいますが、緻密な計算によって日本列島の人口の変遷を算出しています。その速水先生の研究によれば、西暦600年で日本の人口は大体600万人ほどだと考えられています。

 その後、戦や飢饉、病などの流行によって人口はなかなか増えませんでした。関ヶ原の戦いがあった1600年頃で、1200万人程度。つまり、1000年で人口は倍にしかなっていません。その後、江戸時代に入って人口は飛躍的に増えるのですが、おそらく中世の頃はだいたい1000万人程度だったと考えられます。

ADVERTISEMENT

 総人口1000万人のうち、幕府軍は20万人近くもの軍勢を動員することができたというのは、あまりにも数が合わないのではないでしょうか。そこには数字の水増しがあると考えられます。合戦のリアルを考えるならば、この誇張された数字から実際の数字を算出しなければならないのです。

 そこで参考になるのが、以前、中国史研究者の渡邉義浩先生とお会いしたときに伺った話です。渡邉先生がおっしゃるには中国の歴史書においても、兵の数は誇張されて表現されるというのです。

 たとえば『三国志』に出てくる赤壁の戦いというものがあります。ジョン・ウー監督のアクション映画『レッドクリフ』の題材にもなった戦いです。魏の曹操が呉を制圧しようと兵を率いて攻めたわけですが、曹操が動員した魏の兵力はおよそ80万人だったと言われています。いくらなんでも80万人も動員することはできないだろうと思い、「これは実際の数字と考えていいのでしょうか」と渡邉先生にお聞きしました。

 すると、渡邉先生は「ある種の不文律のようなものがありまして、大体10分の1程度の数字で考えてください」とおっしゃいました。

 中国の知識人たちもそのままの数を鵜呑みにするのではなく、10分の1くらいで考えているのだそうです。具体的な根拠を示せと言われても少々難しいのですが、80万人ではなく8万人ならば、想像に難くありません。

 おそらく、このような中国の歴史書を当時の日本の、歴史書の編纂を担ういわゆる知識人たちも読んでいたのでしょう。日本では江戸時代に本居宣長らの「国学」というものが登場するまで、歴史と言えば中国の歴史のことを指していました。ですから当時の日本人にとって、歴史と言えば中国史を意味していたのです。そのため、10倍に誇張された中国の歴史書の記述には非常に親しんでいたということになるでしょう。

 こうした点から見ると、『吾妻鏡』に書かれた承久の乱に動員された幕府軍19万人というのも、実際には10倍に近い数に水増しされていたと考えるべきでしょう。