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「戦いは数である」は鎌倉武士の大原則

 さて、「戦いは数である」という合戦における勝利の大原則について改めて見ていくと、この原則は、まだ一騎討ちが主流だった鎌倉時代の武士たちにとっても非常にリアルな感覚としてあったのだろうと思います。先述した『吾妻鏡』には、そのことをよく表した源頼朝のエピソードが記されています。

 頼朝は鎌倉幕府を開くにあたって、幕府運営のために必要とされる文官を京都から招いています。そのうちのひとりである筑後権守俊兼には、いわばお雇い外国人のようなもので、非常に高い給料が支払われていました。京都出身の俊兼は、着道楽だったようで、京都のお姫様のように何重にも豪華な着物を重ねて着ておしゃれを楽しんでいました。

 その様子を見咎めた頼朝は、俊兼の着物の袖の部分を自分の小刀でズバッと切って彼を諭したのです。

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「どうしてお前みたいな優秀な人間が、質実剛健ということを知らないのか。千葉常胤、土肥実平を見ろ。彼らはお前と違って学問も教養もない。しかし、普段から質素を心がけて、余ったお金で家来を養い、いざ戦が起これば、その家来たちを引き連れて私に忠節を尽くしてくれる。それに比べてお前はなんだ」

 頼朝は、自分に仕える有力御家人である千葉常胤や土肥実平といった具体的な名前を出しながら、俊兼に対して態度を改めるように釘を刺したのです。

 このエピソードは、いざ戦いが起これば、やはり重要なのは「数」なのだと、頼朝がよく理解していたことを物語っていると思います。頼朝がそのように考えていたならば、それは鎌倉武士たちの常識だったのでしょう。

 結局、合戦というのは兵力の数が多いほうが勝つのだというリアルを、田舎武士とされ学問も教養もない鎌倉武士ですらよく知っていた。千葉常胤や土肥実平などの御家人たちは、質素倹約を心がけ、そのぶん1人でも多く家来を養い、戦に備えていたのです。

 もうひとつ、「数」が重要ということがわかる面白い逸話があります。

 治承・寿永の内乱、いわゆる「源平の合戦」を経て文治5(1189)年に源頼朝は奥州征伐に乗り出します。全国に守護、荘園に地頭を置き、日本全国に影響力を及ぼしつつあった頼朝にとって、奥州平泉の藤原氏はいわば最後の敵でした。

 このとき、頼朝は今でいう東北新幹線のルートに沿って北上したわけですが、途中、下野国の小山を通った際、下野国最大の武士団を率いた小山政光の邸に宿泊し、接待を受けました。

 その接待の場で、頼朝には熊谷直家が付き従っていました。直家は、今の埼玉県熊谷に本拠を持つ武士で、熊谷直実の息子です。政光は直家とは初対面でした。政光が何者かと尋ねると、「この者は本朝無双の勇士である」と頼朝は直家のことを褒めちぎりながら紹介します。これに政光は噛みつき、「どうして直家が本朝無双の勇士なのか」と尋ねます。

 頼朝は、一ノ谷の戦いをはじめとする源平の合戦の折には、父・直実と共に命を賭して戦ってくれたからだと応じます。

 政光は、「鎌倉殿(頼朝のこと)は面白いことをおっしゃる」と返します。熊谷などは治める領地も少なく、大した数の家来も養うことができない。だから自分たちだけで戦うしかない。それに比べて、小山家は下野国のナンバーワンの武士団を誇り、多数の家来を養っている。いざ合戦となったらこの多数の家来を派遣し、鎌倉殿に十分に奉公しているではないか、と政光は続けました。

 さらに政光は、鎌倉殿がそのような認識であるならば、我々も考え方を改めて、先陣を切って「本朝無双の勇士」と褒めてもらおうではないかと一族に向けて、皮肉めいたことまで言い放ったのでした。

 小山政光の言うことは正論でした。ですから頼朝も咎めるわけにいかず、面目をつぶされたまま、きっと苦り切った表情を浮かべたのでしょう。まさに、戦いとは「数」だという合戦のリアルを鎌倉武士たちは共有していたことがよくわかります。

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