頼朝と合流できなかった三浦氏は本拠地である衣笠城を敵方から攻められています。このとき、三浦義澄の父・三浦義明が決死の覚悟で敵を衣笠城に釘付けにして、息子たち三浦一族を海に逃がすのです。こうして、義澄らは海上で頼朝らと落ち合い、房総半島で再起を果たします。
残った三浦義明のいる衣笠城は、平氏側の攻撃であっという間に落とされています。つまり、後の戦国時代などにおける数ヵ月に及ぶ籠城戦などは、この頃にはあり得ないのです。
城を防御拠点として使った楠木正成の登場
小規模な城しかなかったわけですから、鎌倉時代初期の合戦においては堅固な城を必要とする大きな戦いはなかったのだろうと想像できます。
それが変貌し始めるきっかけとなったのが、おそらく楠木正成の出現だったのではないかと私は思っています。モンゴルの侵攻以来、次第に日本における合戦は、集団戦へと移っていきました。そうなると、城の必要性というのが増してくるのです。その意味で言えば、楠木正成は、日本で初めて城を防御拠点にすることの重要性に気づいていた人物だったのではないかと思います。
楠木正成は、後醍醐天皇の討幕の呼びかけに応じて、大阪の河内地方で城を拠点とし、幕府軍を相手に戦いました。いわゆる赤坂城・千早城の籠城戦です。それまでの城というのは、先述したように「攻められたらそれでおしまい」という類の、防御拠点としてはほとんど意味をなさないものでした。
それにもかかわらず、楠木正成は幕府の大軍を何ヵ月も千早城に釘付けにして耐え抜き、翻弄したのですから、正成が戦術家として超一流だったことがよくわかります。
楠木正成はこうした千早城の戦いなどを通じて、籠城戦の有効性を広く知らしめ、これ以降、防御拠点としての城が積極的に使われるようになっていくわけです。
より広い視野に立って戦略的に考えるならば、正成が幕府の大軍の攻城を凌いだことで、このとき、幕府の威信は大きく揺らいだと言えるでしょう。つまり、「千早城のような小さな城ひとつ、幕府軍は落とすことができないのだ」という印象を抱かせ、幕府に対する不平不満が一挙に表面化した。その結果、情勢は倒幕へと傾いていったと言えるだろうと思います。
その後、日本において最初に石垣を積んで城を築いたのは、戦国時代の織田信長だったと言われています。信長は小牧山城を築城する際に、石を積んで石垣を造っています。この築城技術はあっという間に各地に広がり、半世紀も経たないうちに、非常に精緻で堅固な石垣が造られるようになりました。
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