古代、日本のエリートたちは隋や唐に行き、律令を学んで日本に持ち帰りました。しかし、そのまま使うのではなく日本のかたちに合わせて、律令そのものを作り替えています。これと同じで、平城京や平安京は、四方を囲む壁はあるにはありましたが、土壁程度のものに過ぎません。門も城門とは言い難いものでした。
昔から物作りの得意な日本ですから、おそらく作ろうと思えば作れたのだと思います。ところが日本では城壁は作られなかった。つまり、作る必要がなかったのだろうと思います。必要がないものをわざわざお金をかけて作っても仕方がない。そのため、日本の都市計画は城壁がないかたちで発展していったのです。
それではそもそも、城壁というものが必要になるのはどういうことかというと、中国の場合、モンゴルなどの騎馬民族の侵攻といった、異民族の侵攻に有史以来、ずっと悩まされてきました。そのため、異民族からの侵攻を防ぐために、こうした城壁が発達したのだろうと考えられます。
その点、日本は異民族から壊滅的な侵略を受けたことがありません。一神教を奉じ、頻繁に異教徒間で死闘を繰り返してきたヨーロッパとは異なり、長い間、戦乱自体も相手を殲滅するほどの苛烈なものではありませんでした。それで、大規模な城壁は必要ないと判断されたのでしょう。
その意味では、日本の環境というのは、中国やヨーロッパに比べて、非常に「ぬるかった」のかもしれません。
お粗末すぎる日本の城壁――やっぱり日本はぬるかった!?
日本はぬるい。その思いを強烈に抱いたのは、博多に行ったときのことでした。日本は異民族から侵略されることはなかったと述べましたが、幕末の黒船来航を除くと、唯一、日本側の軍隊と異民族=外国の勢力が日本国内で争ったのが蒙古襲来、いわゆるモンゴル軍の侵攻でした。
最初の侵攻となった文永の役の後、日本側はモンゴル軍の再侵攻に備えて、防塁を作り、守りを固めています。現在、対モンゴル用の防塁は復元されています。私はそれを見たとき、驚き、呆れてしまいました。
というのも、そこにあったのはだいたい人間の背丈くらい(1・8~2メートル)の高さに石を積んだだけのものだったからです。それはこれから侵攻してくるモンゴル軍を退けるためのものだったとすると、あまりにもお粗末なものと言わざるを得ない。この戦いに負けてしまえば、日本は侵略されてしまう。存亡を賭けた戦いなのですから、そんな簡単な防塁で大丈夫なのか、と私は唖然としてしまったのです。
侵攻を防ぐ防塁であるならば、もう少し堀を作るとか、工夫があって然るべきです。堀を作れば土が出ますから、それを盛って土塁とする。その上からさらに石を積めばもっと高い防塁になる。空堀と土塁とさらに高い石積み。それくらいの工夫なんていくらでもできるはずなのです。
しかし、対モンゴル用の防塁はただの人間の背丈くらいの石積みがあるだけ。『蒙古襲来絵詞』にも同様の絵が残っていますからおそらく間違いないだろうと思います。