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 鎌倉時代、とりわけ13世紀後半にもなって、日本は城郭や城壁に対してそのような意識しかなかったのです。技術はおそらくあったでしょう。しかし、城壁のある城郭を作ろうとする意識はその時点ではなかったのだろうと思います。

 私はこれまで自分の著書のなかで「日本史の法則」として「日本の歴史はぬるい」ということを述べてきました。つまり地政学的に言えば、やはり日本は大陸から海で隔てられた島国なのです。世界中でペストが蔓延したときにも日本では流行を見なかったように、日本列島はそうそう外国の勢力から攻められることもなかった。

 また、同じ日本人同士の戦いも、ヨーロッパ人のような殲滅戦にまで発展することはほとんどありません。その意味では、日本は「ぬるかった」。だから、城郭も城壁も作る必要がなかったのです。

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 また、地政学的に外部からの攻撃が少ない「ぬるい」国だったからこそ、逆に、外圧には弱い。日本のなかで何か改革が起こるときは常に外圧が要因となっていました。

 たとえば、合戦のあり方は、モンゴル軍の襲来以降、一騎討ちから集団戦へと変わっていったと先に述べましたが、これも外圧でしょう。幕末の黒船来航は言うまでもありません。これを契機に幕藩体制の終焉と明治政府の樹立へと日本は傾いていきます。

 このモンゴル軍の侵攻以降、合戦のかたちが一騎討ちから集団戦・総力戦になるにつれて、城郭や城壁についてもそれに応じてより堅固なものを築くようになっていったと考えられるのです。

 その意味では、一騎討ちが基本の鎌倉時代初期の城攻めと、集団戦が基本の戦国時代の城攻めとでは、全く性格の違うものだということがわかるでしょう。

写真はイメージです ©iStock.com

すぐに攻め落とされた鎌倉時代初期の城

 蒙古襲来の際にもこの程度の防塁しかなかった国です。実は、鎌倉時代初期においては、城自体も簡単なもので、攻めればすぐに落ちる程度のものでした。

 源頼朝が奥州征伐へと向かったとき、攻められる側の奥州藤原氏は、福島県の厚樫山に防塁を作り、守りを固めました。しかし、頼朝の軍勢はあっという間にこれを破ってしまっています。

 まだ一騎討ちが主流だった頃の鎌倉時代初期において、城というのは普通に攻めれば簡単に落ちてしまうものなのです。当時の城というのは大した防御施設ではなく、城といっても小山のようなものです。そのため、その気になって攻めれば1日、2日ですぐに陥落してしまいます。

 頼朝の最初の挙兵の際の三浦氏の攻防も、この良い例だと思います。治承4(1180)年、源頼朝が以仁王の令旨を受けて挙兵したとき、山木氏との初戦に勝利すると、大きな勢力を誇る平氏側の大庭氏・伊東氏との対決に備え、相模国の三浦義澄ら三浦一族と合流しようと試みました。

 しかし、三浦氏は増水した川に阻まれて進軍できず、頼朝の前には大庭氏の軍勢が立ちはだかりました。いわゆる石橋山の戦いです。ここで大庭氏に大敗を喫した頼朝は真鶴岬から海を渡って房総半島へと逃げ延びます。