現在の日本社会は、新型コロナという未知のウイルスだけでなく、デマや歪んだ思想も蔓延している。国民がデマや歪んだ思想に惑わされないためには、良質な思想に触れて“免疫力”を高める必要があるのだ。
ここでは、評論家・中野剛志氏と作家・適菜収氏の共著『思想の免疫力 賢者はいかにして危機を乗り越えたか』(ベストセラーズ)から一部を抜粋。昭和の批評家・小林秀雄の思想について語る中野氏と適菜氏の対談を紹介する。(全2回の1回目/後編に続く)
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言葉の限界について
適菜 中野さんが2021年3月に出した『小林秀雄の政治学』を読みましたが、非常に面白かったです。この本はいろいろな読み方ができますが、私は「新型コロナ論」にも見えました。未知の事態、新しい事態が発生したときに、人間は、どのように考え、どのように動くのか。小林秀雄(1902-83)に見えていたものは、凡人や似非インテリの目には映っていませんでした。
中野 やっぱり新型コロナは念頭に置かざるを得ないというか、コロナ禍に突っ込まれている今の日本や世界を考えるときに、小林秀雄をあらためて読むべきだよなと思ったんです。未体験の新しい事態に人間ってしょっちゅう直面するんですけど、直面して、これまでの理論や既成概念が通用しなかったときに、どう人間は振る舞うべきか、ということに小林の関心が一貫してあったんですね。そのこと自体があまり理解されていない。
例えば小林が戦争について語った「反省なぞしない」という終戦直後の有名な言葉があります。しかし、この「反省なぞしない」という意味も、単なる居直りくらいにみなされて、ちゃんと理解されていないのではないか。あるいは、戦争に「国民が黙って処した」という言葉も、それだけが有名なんだけども、その言葉の意味がちゃんと理解されていない感じがしたんです。これらは全部、新しい事態、未知の事態に、どう対処するかということと関係している。
それだけではない。よく読んでいると、かなり早い段階、つまり批評家として道を歩み出した当初の頃から、後半生に福沢諭吉(1835-1901)や本居宣長(1730-1801)について書くようになるまで、あるいは、日本や伝統に対する随筆もそうですが、これらを貫いているのは、結局「新しい事態にどうやって対応するか」、この一点です。小林はこればかり書いていると言ってもいいかもしれない。
適菜 そうですね。危機を見抜くということです。要するにこれは「目」の問題だと思います。小林が批評の題材としたものは多岐にわたっていますが、一貫して言っていることは「既成概念を通して見るのではなくて、直接、目で見なさい」ということです。これは、近代人の考え方と逆ですよね。近代社会では論理的に合理的に理性的にものごとを考えることが重視されます。個別のもの、瑣末なものにこだわるのではなく、抽象度を上げて考えろと。
しかし、小林は抽象度を上げることの危険を指摘し、個別のもの、瑣末なものをきちんと見ろと言ったわけです。戦後日本で小林が理解されてこなかったのも、ここに理由があると思います。