1ページ目から読む
2/4ページ目

中野 小林について、まさに典型的な誤解をやったのが、私が『小林秀雄の政治学』で批判した丸山眞男(1914-96)です。丸山のせいで小林が誤解されるようになったのか、それとも世間の誤解と同じ誤解を丸山がしたのか。いや、もしかしたら、もっと悪質で、故意に世間の誤解に乗っかって、その誤解を自分の権威でサポートして、小林をおとしめたんじゃないか。そう思いたくなるぐらいひどいんです。

 まさに、概念の操作で物事を理解しようとするような近代人の物の考え方、合理主義といってもいいですけど、それを批判する小林を、丸山は「あらゆる理論を否定して日常の実感だけを信じているんだ」と決めつけ、反対の極端にまで走らせてしまうんですね。しかし、小林は理論それ自体を否定してるのではない。

 彼は「物」という表現を繰り返しますけれど、「物」すなわちありのままの世界の一部を抽象化したのが「理論」です。そのありのままの世界をできるだけ言葉をこらして表そうとする理論というもの自体は認めている。ただ、小林は、理論は実践や行為の中にあると言っているんですよ。

ADVERTISEMENT

 しかし、丸山は「小林秀雄は理論を否定して実感に走った」と決めつけた。多分、丸山は、自分は社会科学者として社会科学の理論をやっているのに対して、小林はあらゆる社会科学を拒否して文学に走ったと対比させたいのです。小林秀雄解釈の多くも、そういう理解に立って小林を批判したり、逆に小林を「自分と同じだ」と言ったりしている場合が多いように思う。

 小林自身がはっきり書いているのですが、彼は、理論そのものをまるごと否定しているんじゃなくて、理論というものはあるし、必要なのだけれども、その理論を生み出すことがいかに難しいか、ということを言いたいのです。あるいは、理論というものには、いかなる限界があるかということ。理論は頭で考えるものじゃなくて、行為や実践の中から出てくるんだということを、小林はしきりと語っています。

中野剛志氏 ©文藝春秋

小林が指摘した近代的思考の暴力

適菜 私は保守思想の本質を小林から学びました。保守思想とは、近代的思考により、切り捨てられたものを重視するということです。数値化、概念化して再構成するという近代の原理の背後に唯一神教とプラトン主義を見出したのはニーチェでしたが、小林もまた近代の問題を一番深いところまで考えています。

 小林は理性や合理を批判しましたが、非合理にたどり着いたわけではありません。合理や理性、概念で割り切れるものだけではなく、そこから排除されるものをしっかり見ろと言ったのです。だから、保守は単純な反近代でも復古でもありません。

中野 そうそう。ここはすごく重要なポイントなんですけど、保守主義とロマン主義とは違うということです。「保守」に分類される人でも、近代をまるごと否定して、近代世界とは別の世界を追い求めるようなロマン主義者がいる。しかし、ロマン主義は、現実にはあり得ないフィクションの過去を理想視するわけですから、それを実現しようとすると、相当ラディカルな変革を引き起こしてしまうわけです。ラディカルってことは、保守ではないということですよ。

適菜 ロマン主義は18世紀末から19世紀にかけて、西欧で興った芸術上の思潮ですが、そこでは自然との一体感や神秘的な体験、無限なものへのあこがれが表現されてきました。だから、右翼の感覚に近い。

中野 右翼です。右翼というのはラディカルですね。小林秀雄は「近代の超克」の座談会で、近代じゃないものを持ってくるつもりなんかないんだというようなことを言ってます。近代を批判してはいるが、近代から逃げてはいない。これもずっと彼が徹底していることです。確かに小林は、最後に本居宣長に行き着いたり、戦時中には平家物語や源実朝(1192-1219)を読んだりしている。あるいは、江戸時代の古学について、しきりと書いている。それをもって、小林は日本の伝統に戻ってきたみたいな言われ方をすることもある。でも、そういう復古主義ではないんですよ。