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封建社会の問題

適菜 小林がフョードル・ドストエフスキー(1821-81)について書いた理由も同じです。ロシアのインテリゲンチャが西欧近代をどのように受け止めたか、それと日本の近代受容の問題を重ね合わせていると思うのですが、中野さんの『小林秀雄の政治学』にはこうあります。

《西欧の文化に対する劣等感に悩んだロシアのインテリゲンチャたちにとって問題となったのは、「ナロオド」というロシアの土着の民衆(農民)という観念であった。彼らは、自分たちの思想や教養が西欧からの輸入品であって、ナロオドと共有するロシアの文化伝統に根差したものではないという強迫観念に駆られていた》

小林秀雄の政治学』(文春新書)

 小林はロシアの専制は、国民の間から自然に発生してくる封建制度さえ許さなかったと書いています。中野さんは、「西欧から自由主義をはじめとする政治思想だけが流入したところで、ロシアの政治的現実には定着し得ない。結局、自由はロシアでは、インテリゲンチャが抱いた観念にとどまるしかなかった、それが過激な直接行動につながった」と指摘されていますね。

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中野 封建社会の問題は、近代の自由や民主主義と関係しています。日本の一般的な理解、あるいは丸山眞男あたりが流布した説だと、近代が自由民主主義的であるのに対し、前近代の封建制は自由民主主義の障害だという議論になっている。しかし、実は、話は逆で、これは今日の歴史社会学の研究でもそうだし、小林も分かっていたことですが、近代的な市民社会は、封建制度を基礎にしているのです。

 封建制においては、日本の武士団や寺社勢力、あるいはヨーロッパの貴族や教会のように、自分たちで権力をもった集団が存在している。こうした自立した集団は、専制君主が出てくると激しく抵抗するわけですよ。だから封建制というのは、本質的に分権的であって、まったく中央集権的じゃないわけですね。

 他方で、近代は、中央集権的にやることで国力を高めようとする。国家を統一して中央集権的にやろうとするんですけれども、封建制が根強く残ってるところだと、封建的な勢力が抵抗するのと同じように、個別の自治的な集団が抵抗して、自治を守ろうとする。それが、近代的な自由や民主主義の原型になります。

 これに対して、封建制がないところは、もともと、皇帝の絶対権力に抵抗できるような集団が弱いものだから、専制国家になる。ロシアがそう。多分、中国もそうですね。こういった国家が近代化すると、近代化とは国家権力によってやるのですが、それに対する自治的な集団の抵抗もないものだから、近代国家が専制国家になってしまうのです。

 日本では「封建社会の残滓があるから、近代的な市民社会ができないんだ」なんて信じて抜本的改革を叫ぶ人が未だにたくさんいますが、実際には、話は逆で、封建社会の残滓がなければ、近代的な市民社会はできなかったのです。

適菜 その部分は『小林秀雄の政治学』で中野さんが述べられていたフリーダムとリバティーの違いとも関係しますね。市民の権利として社会から与えられたのがリバティーであるなら、自己を実現しようとする個人的な態度が、小林が言う自由(フリーダム)なのだと。

 要するに、固有の経験や歴史に基づき、そこで戦い取られたものなのか、近代的理念としての普遍的自由を与えられたのかの違いですよね。概念が神格化されれば暴走して歯止めが利かなくなるのは必然です。

中野 そうですね。概念の暴走、イデオロギーと言ってもいいんですけど、その根底にあるのは、またしても言葉の問題です。小林は「様々なる意匠」でも、のっけから「言葉」について語っています。小林は、言葉のことばかりずっと書いているのです。言葉は、ありのままの現実をすべて表すことができない。できないんだけれども、一方で人間は、物を人に伝えないと生きていけないところもある。

 でも、言葉は全部を人に伝えることができない。せいぜい近似値でしか伝えられない。文体が良くない人、言葉の扱いが下手な人は、その近似値をとるのが下手だから、平板な表現になる。その平板な表現は、現実を一部しか切り取れない偽物なんですが、しかし、一面だけ切って薄っぺらくして伝えたほうが、大勢の人に伝わりやすいのです。適菜さんがおっしゃった「概念の暴走」ってやつです。そういう言葉のやっかいさが、イデオロギーというものを生み出し、社会が人間を非人間的にして支配する根源にあるのです。私は、そのことを小林から学びました。

後編を読む

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中野剛志 ,適菜収

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