現在の日本社会は、新型コロナという未知のウイルスだけでなく、デマや歪んだ思想も蔓延している。国民がデマや歪んだ思想に惑わされないためには、良質な思想に触れて“免疫力”を高める必要があるのだ。

 ここでは、評論家・中野剛志氏と作家・適菜収氏の共著『思想の免疫力 賢者はいかにして危機を乗り越えたか』(ベストセラーズ)から一部を抜粋。「ものまね」と「笑い」ついて語る中野氏と適菜氏の対談を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む

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コロッケが偉大な理由

適菜 文体も模写により学ぶものです。歌もそうです。音符が最初にあったわけではなくて、歌は模写で始まっている。言葉も同じです。だから、すべての基本は「ものまね」なんですね。以前、中野さんにお話ししたかもしれませんが、君島遼(1991-)が小林幸子(1953-)のものまねをするじゃないですか。

中野 うん。恐るべきものまねですよね。

適菜 テレビのものまね番組で、ものまねの最中に、本人が後ろから出てくるのは、お決まりの演出ですが、小林幸子本人より君島遼のほうが似ている。どうしてそういう現象が発生するかというと、小林幸子の構造の部分を捉えているからですよね。

 われわれが小林幸子を見て、小林幸子と認識できるのは、別に細かいところを見てそれを足し算して答えを導き出しているのではなくて、これまでの話で言えば、暗黙知が作用しているわけです。

 達人はそれを見抜くから、本人以上に本人ができてしまう。小林幸子本人にはわれわれが小林幸子だと認知している以外のものがたくさん付随しているわけだから。

 コロッケ(1960-)もそれほど歌はうまくないのに、すごく似ているという現象が発生しますよね。対象の骨格を見ているからです。

中野 私も同じことを考えているのですが、小林幸子でも五木ひろし(1948-)でもいいけれど、われわれはテレビや劇場とかで見ても、実は正確に認識していなくて、いくつかの特徴を象徴的に掴んで「小林幸子」「五木ひろし」と無意識に認識しているわけです。

中野剛志氏 ©文藝春秋

 だから小林幸子を「絵に描いてください」と言われたら、もちろん普通は絵に描けないんだけど、仮に自分の頭にいる小林幸子を絵に描いたら、君島遼のまねとそっくりになるかもしれない。

 だから、無意識に認識しているものを表に出されると、笑ってしまう。特にコロッケは、全然似てないものを似てるような気にさせるので、そんな気になった自分がおかしいって笑う。笑うだけでなく、それをやってみせたコロッケにひそかに敬意を抱きますね。