おかげで道を踏み外さずに済んだ堀部少年が、代わって目指したのが俳優だった。もともと小学生の頃、新宿の街で見かけて以来、松田優作に憧れていたという。だが、松田を輩出した文学座の研究所は応募資格が高卒以上で断念。同じく新劇の名門である劇団青年座には合格したものの、入所金が高くて、こちらもあきらめざるをえなかった。
悩んだ堀部は、中学時代の同級生・須間一也の父親が芸人だったので相談に行くと、劇場を紹介される。行ってみるとそこはストリップ劇場で、須間と2人で幕間にコントをやることになった。当初は先輩の芸人からネタを教わって演じていたものの、自分たちの世代にはまったくヒットしない。それならばと自分でネタを書き始める。そのうちに劇場の人たちや観客からの反応に面白みを見つけ、自信がつき出した。だが、車を買ったらローンを抱えてしまい、生計を立て直さなければならなくなる。
しばらく芸人を休業して運送屋でバイトしていたところ、テレビに須間が別の相方と「パワーズ」というコンビで出ているのを見て、ショックを受ける。これを機に芸能界に戻ると決めると、萩本欽一の番組のオーディションを受けて合格し、日本テレビの夕方バラエティ『欽きらリン530!!』にレギュラー出演する。22歳となっていたこのときにはパワーズの須間の2代目相方という形で再度コンビを組み、火野玉男を名乗った。
しかし、本来は俳優志望とあって、笑いの仕事をすることには葛藤があったようだ。のちに当時を振り返り、《自分が面白いとも思ってないことを無理やりやらされて、それがウケなくて怒られてっていう悪循環の中にいて。つまらないというよりは悔しかったです》と語っている(※2)。
お笑い芸人から、放送作家に転身
1991年にはパワーズを解散、タレント活動を一旦休止して放送作家に転身する。直接のきっかけは、あるテレビ局のプロデューサーから「タレントとして番組でやりたいこと」を企画書として提出するよう言われたことだった。
しかし、どうやって書けばいいのかわからない。それなら一から勉強しようと、そのプロデューサー――のちに『進め!電波少年』などのヒットを飛ばす日本テレビの土屋敏男に、作家になるため事務所も辞めてきたと伝えた。土屋からは「そんなこと急に言ってくるな!」と叱られたが、ちょうど新番組『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(『生ダラ』)が始まるタイミングで、立ち上げから参加させてもらうことになる。