スタジオの進行台本を担当したときには、先輩作家の書いた原稿を自分がまとめておくので貸してくださいと言って預かり、原稿の書き方を学んだという。『生ダラ』と同時期には『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』にも参加するようになり、大きな影響を受けた。
血糊まみれで「やっぱり、俺はここだなあ」
作家の仕事を始めた翌年には、並行して本名の堀部圭亮でタレント活動を再開、新たに勝俣州和と結成した「K2」で『笑っていいとも!』などにレギュラー出演し、人気を集めた。俳優になりたい気持ちはずっとあったので、ネタは芝居寄りのものを書いてやっていたという。
このころ、堀部たちの舞台に出てもらった女優が、映画監督のSABUと知り合いで、彼が監督第1作を撮るに際し、堀部を推薦してくれた。こうして映画『弾丸ランナー』(1996年)で念願の俳優デビューを果たす。徹夜で血糊まみれになりながら撮影したあと、朝日の差す撮影所の風景を見て、「やっぱり、俺はここだなあ」と満足感を覚えたという。
放送作家として《本当にテレビを面白くしているという意識は自分の中に強くあります。作り手として、構成して収録し、編集で間を考えてきっちりつくりあげる。知名度のあるタレントを呼んで、『はい視聴率』では、僕は済まされないんです》(※1)という矜持を持って仕事をこなしながらも、理想はあくまで映画にあった。2001年のインタビューではシナリオを書きたいと語っている。しかし、それが作品として結実するまでには8年かかった。
30代半ばで「俺、これでいいのか?」
2009年、初めて監督・脚本を担当した映画『悪夢のエレベーター』が公開される。その制作に集中するため、放送作家の仕事をきっぱりやめ、タレント活動も一時休止するという覚悟の決めようであった。映画を撮るそもそもの発端は、35歳頃、ふと「俺、これでいいのか?」と立ち止まった瞬間にあるという。
《俺、人生のペナントレースの中で、今何位にいて、何ゲーム差ぐらいでどんな相手と戦っていて、残り何試合あるんだろうとか、いろいろ考えちゃったんですよ。で、50歳、60歳になって今を振り返ったとき“ああ、あの頃から消化試合だったんだな”と思ってしまうとしたらそれはすごく残酷なことだなと。そうならないためにどうすればいいんだろうってことの結論が、今まで逃げていたともいえる、本来自分のやりたかったこと、〈映画〉に立ち返ろう、だったんです》(※3)