いまから50年前のきょう、1967(昭和42)年12月11日、当時の首相・佐藤栄作は、核兵器について「作らず・持たず・持ち込ませず」の立場をとる「非核三原則」を日本政府として初めて公式に表明した。
この日の衆議院予算委員会において佐藤は、自民党の松野頼三議員の防衛政策に関する質問に対し、「私どもが忘れてはならないこと」として平和憲法とともに非核三原則をあげ、「平和憲法のもと、核に対する三原則のもとにおいて日本の安全はどうしたらいいのか、これが私に課せられた責任でございます」と述べた。さらにこのあと、社会党の成田知巳書記長の質問に対しても、「私どもは核の三原則、核を製造せず、核を持たない、持ち込みを許さない、これははっきり言っている」と答弁した。
この前月、訪米した佐藤はジョンソン大統領(当時)と会談し、敗戦以来アメリカの施政権下に置かれてきた小笠原諸島は1年以内に返還との共同声明を発表していた。先述の成田に対する佐藤の答弁は、仮にアメリカが小笠原に核兵器を配備していたとしても、返還後は本土と同様、非核三原則を適用する方針を示したものであった。しかし同じく返還交渉が進められていた沖縄の核については、この時点ではまだ「白紙」とされた。
佐藤は翌68年1月27日、国会での施政方針演説で非核三原則を正式に宣言する。69年には沖縄も、「核抜き、本土並み」で3年後の返還が決まる。74年、首相退任後の佐藤にノーベル平和賞が授与されたのも、非核三原則を評価されてのことであった。
しかし、非核三原則のうち「持ち込ませず」は、有名無実化しているとの疑惑が佐藤の首相在任中からあった。事実、2009(平成21)年には、佐藤が沖縄返還交渉中に、有事の際の沖縄への核持ち込みに関する密約文書を当時のニクソン米大統領と交わしていたことがわかっている。また、1967年11月の訪米時、佐藤はマクナマラ国防長官に対し、「日本の安全確保のため、核を持たないことははっきり決心しているのだから、米国の核の傘の下で安全を確保する」と話していたことが、やはり後年の調査であきらかになった。非核三原則は、アメリカの核の傘とともにあることを生まれたときから宿命づけられていたのである(「NHKスペシャル」取材班『“核”を求めた日本 被爆国の知られざる真実』光文社)。
今年7月、核兵器禁止条約が122ヵ国の賛成により採択された。しかしこれに日本は、アメリカなど核保有国やNATO(北大西洋条約機構)諸国の大多数とともに参加しなかった。それも核の傘の下で守られているという事情によるところが大きい。被爆国でありながら、核の傘に頼らざるをえない。我が国はそのジレンマを、佐藤栄作が非核三原則を掲げた半世紀前より抱え続けているのである。