地下の坑道内を行き交う数百人の人たち。坑道内に露店が立ち並び、子供たちの歓声が響きわたる。客を呼び込む露店のかけ声、唐揚げを揚げるジュージューという音も聞こえてくる――。
ここは、岐阜県可児市の天ヶ峯おちょぼ稲荷神社。毎年7月に夏祭りが行われていたが、その場所が非常に特殊だった。神社は小高い丘を登った山頂付近にあり、その山の下には戦時中に地下軍需工場を造るために掘られた無数の坑道があった。夏祭りは、この坑道内で行われていたのだ。その名も“洞窟夏祭り”。日本で唯一の、地下坑道内で行われる地域のお祭りだった。
洞窟夏祭りは主催者の高齢化により、2016年が最後の開催になってしまった。この年、偶然祭りに参加することができた私は、その後の坑道がどうしても気になってしまい、ここ数年の間に幾度となく現地を訪れ、遂には現在の様子を見ることができた。(全2回の2回目/前編から続く)
手書きで書かれた“驚きの看板”
ところで参道の入り口付近には、この神社の由来を記した看板が立てられている。手書きで書かれた文字は綺麗とは言い難く、経年劣化で色褪せていた。
私は神社を訪れたときも、洞窟夏祭りのことに集中しすぎていて、この看板をきちんと読んだことがなかった。だが、調査に行き詰った時、ふと看板に目を向けると、とんでもないことが書かれていた。
今から六百数十年の昔、御(後)醍醐天皇の御代の元享(亨)年間1321~1324に、天皇は鎌倉幕府の執権 北条高時を討とうと考えられ、側近の公家 日野資朝郷(卿)を使いとして国々に勤王の士を募られた。山伏姿の資朝卿は東国に下る途中 この天ヶ峯の洞窟で美濃の武士 土岐頼貞 多治見国長等と討伐の密議をしたという。
その時、資朝卿が奉持してこられた。
山城国伏見稲荷の御神霊倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命三座の御分霊を羽崎の豪族に「千代に八千代に保ち奉れ」と譲り渡されたという。それでお千代保稲荷としてまつり諸人の災を除き、福を授け開運の神として信仰されている。
少し分かりにくいので前半部分を意訳すると、時は鎌倉時代。後醍醐天皇が鎌倉幕府の北条高時を討とうとし、側近の日野資朝に命じて全国に同士を募った。日野資朝は東に向かう際、天ヶ峯の洞窟でこの地方の武士・土岐頼貞や多治見国長たちと討伐の密議をした――。
つまり、ここの洞窟内で鎌倉幕府倒幕のための密議が行われたということになる。このような話は、今まで聞いたことがなく、私は驚きを隠せなかった。
この洞窟内で倒幕の密議が…?
鎌倉といえば、今年はちょうどNHKの大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている。ドラマよりも少し後の時代の話になるが、タイムリーな話題といえるだろう。
看板に書かれている内容からは、1324年の「正中の変」が連想される。正中の変は、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の最初の試みだったが、密告によって事前に計画が漏れてしまい、土岐頼貞や多治見国長は殺害され、日野資朝は流罪となった。こうして正中の変は失敗に終わるが、後の元弘の乱へとつながってゆく。
神社の由来について書かれた看板の内容は、その正中の変のための密議が、この洞窟内で行われたことを示している。