「神社の真下にある洞窟ではないか」
岐阜県可児市にこのような場所があったこと(正確にはこのようなことがあったとする看板が存在すること)を知り、これは本当のことなのか、歴史に詳しいであろう人たちに聞いてみることにした。
まずは洞窟夏祭りの調査でもお世話になった地元可児市の市議会議員で、“岐阜県明智光秀ゆかりのまち議員連盟”に所属する3人の議員さんに聞いてみた。しかし皆さん、ご存知ないという回答だった。
神社がある羽崎地区に詳しい林則夫議員からは、「看板の内容は知らないが、洞窟夏祭りが行われていた坑道は戦時中に地下軍需工場として掘られたものなので違うだろう。もしも密議が行われたとしたら、山頂の神社の真下にある洞窟なのではないか。あの洞窟は、現在は貫通しているが、昔は一方しか開いていなかった。神社の神事等に利用するため、洞窟を拡張して貫通させた」などと、色々なことを教えてもらった。
何度も現地を訪れている私は、その洞窟に心当たりがあった。洞窟夏祭りの坑道の真上に位置するが、数十メートルほどの高低差がある。山頂の近くにある、その貫通したトンネルみたいな洞窟は、神社の物置のような使われ方をしていた。物置のためにわざわざトンネルを掘るだろうかと疑問に思っていたが、元々洞窟があったのなら、納得できる。点在していた複数の謎が1つに繋がり、一気に解けた感じがした。
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、源頼朝が洞窟の中で家来たちと話し合うシーンがあった。あくまでもドラマであるが、この洞窟のイメージとピッタリと重なるように思えた。
“出典の謎”を突き止める
また、林議員によると、問題の看板は地元にあった小学校の校長で、郷土研究をされていた方が書いたのではないか、ということだった。看板には、元亨年間(1321~1324)を“今から六百数十年の昔”と書かれていたので、この文章が書かれたのは1950年前後と推定される。その頃に校長先生だった方が現在もご存命である確率は限りなく低く、ご本人から話を聞くことは叶わなかった。
一方、私が話を聞いた議員さんたちは、地元でこのような話があったのかと大変興味をお持ちになったようで、その後も熱意を持って調べてくれた。山根一男議員は「可児市史」を調べたが記載がなく、可児市の文化財課に問い合わせたが、文献等は見つからなかったという。
しかし、神社の近くにある郷土歴史館で話を聞いたところ、昭和55年に刊行された「可児町史」の通史編に、あの看板とほぼ同じ文面の記載があることが分かった。
「可児町史」では、羽崎地区住民談の口頭伝承として紹介されている。これにより、手書き看板の出典は明らかとなった。「可児市史」には記載がなく、それ以前の「可児町史」、しかもその別冊にしか記載がなかった。これが突き止められたことは奇跡と言っても過言ではないだろう。史実であるかは別として、謎が解けたことがとても嬉しかった。