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突如として襲った自律神経の病…「死の恐怖さえ感じるようになっていた」川﨑宗則を救ったイチローの“ある言葉”とは?

『「あきらめる」から前に進める。』より #2

2022/04/05

心療内科で2ヶ月の入院生活

 2ヶ月間の入院生活と心療内科の先生の治療が始まりました。最初の頃は生きるために「呼吸をしなきゃいけない」と、そのことだけを考えていたような気がします。先生からは、とりあえず頭を休ませなきゃいけないということで、マインドフルネス(不安を和らげる効果が期待できメンタルを疲れにくくする瞑想法)や、自律神経を整えるようなトレーニングに取り組んでいたんですが、当初はなかなかそれを受け入れられませんでした。

 これまでの僕は、治療といえば外科や内科のように治ることがしっかり確認できるのが当たり前だと思っていたし、トレーニングにしてもやればやるだけ結果がついてくるものだと信じていましたから……。心療内科の治療ってすぐに効果が期待できるものじゃないので、どうしても治療に疑いを持ってしまうところがあったんです。

 それでも先生と一緒に治療とトレーニングを続けているうちに、少しずつ頭を休められるようになり、今やっていることは生きるために必要なことなんだと思えるようになっていきました。それと同時に、入院をして野球をやめられたからこそ、頭も休められただけじゃなく、肩、足を含めて何もかもすべてを休ませることができたのだと感じられるようにもなりました。

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 とりあえず2ヶ月が経ち入院生活が終わりましたが、もちろん元の自分に戻れたわけではないですし、何か大きな改善があったわけでもありませんでした。自宅に戻ってからもリハビリを続ける日々でした。

川﨑は自律神経を整えるようなトレーニングに取り組んでいたという ©文藝春秋

 当時は食べ物もほとんど受け付けず、水さえあまり飲めない状態でした。筋肉もすべて落ち、一気に痩せてしまったので、体重は53キロまで減ってしまいました。

 退院後は、家も海の近くに引っ越しました。以前よりは手狭だったので、息子から「なんでこんなに狭いところに住むの?」と言われもしました。食事も食べられないものが多かったので、妻は大変だったと思います。僕自身は家族と過ごす時間にすごく助けられましたが、家族にはいろいろ苦労をかけたと思います。

 リハビリ中は自宅だけでなく、鹿児島の実家でも過ごしました。両方とも海に近かったせいかもしれませんが、それまでずっと呼吸することしか考えられなかったのに、「歩くことくらいはできるかな? ちょっとやってみようか」という気になり、何となく海の周りを歩くようになっていましたね。それからは家族と過ごすか、それ以外はただ無心で歩く日々が続いていました。

 実は実家の鹿児島でリハビリ生活をしていた時は、家族とは離れていました。僕が戻るまで、妻はひとりで子どもたちの面倒を見て、引っ越し作業もすべてやってくれていました。福岡に戻りまた一緒に生活するようになってからも、病気のことを理解できない子どもたちと僕の間に入って、僕が負担にならないように気遣ってくれていたと思いますし、家族との時間は僕にとってかけがえのないものでした。本当に妻には感謝しています。

 リハビリを続けていた頃は、もう二度と野球をすることはないだろうと思っていました。だって野球をやめたからこそ自分を安心させられ、自律神経の病気と向き合うことができたんです。また野球をしたいという気持ちはまったくありませんでしたし、ホークスにも僕の状況を正直に説明し、自由契約にしてもらいました。

 ただ家族と過ごしながら、息子に「野球がやりたい」とせがまれて、彼に向かって小さいボールを投げるようにはなっていました。もちろん遊び程度だし、本格的にまた野球をやろうなんて1ミリも考えていませんでした。息子相手にボールを投げてみると、体は骨と皮の状態だし、体力もすっかり落ちているので肩が痛くなってしまったんです。

 すると自分の中でちょっと欲が出たのか「もう少しちゃんと投げられないか? 肩も痛くなったしちょっと腕立てとか懸垂でもしてみようかな?」みたいになり、少しずつですけど体を動かせるようになっていった感じでしたね。