「異常(アノマリー)」とは、本書の存在そのものかもしれない。ジャンルをひと言でまとめれば「思考実験的SF群像ミステリー」となるだろうが、そんな既存の分類ではとらえられない新鮮な読書体験を与えてくれる。
とある飛行機の乗客となった人々の濃厚な人生ドラマ。一方で、「自己とは何か」「社会と個人の関係性」という理性的で哲学的な問いかけも横たわる。フランス文学だけに洒落た鋭い社会風刺もあれば、ラストのページまで一気にめくらせるエンタメ力も抜群だ。たとえるなら、複雑な要素を巧みに組み合わせた箱根寄木細工の逸品か。
ここからは少し内容に踏み込むので、まっさらなまま楽しみたいという方はすぐにでも小説に飛び込んでもらいたい。フランスの権威ある文学賞・ゴンクール賞に輝き、アメリカでもニューヨーク・タイムズの「ベスト・スリラー2021」に選ばれるなど面白さはお墨付きだ。
一見何の接点もない登場人物たち。良き夫、父親であり、プロの殺し屋でもあるブレイク、妹の治療費を稼ぐためきな臭い訴訟を引き受けた弁護士のジョアンナ、年下の恋人への未練を引きずる初老の建築家アンドレ……。彼らは2021年3月、エールフランス006便で、死を覚悟するほどの乱気流に見舞われるも生還を果たした。だが、それだけでは終わらなかった。6月、同じエールフランス006便が米空軍基地に着陸する。そう、まったく同じ。乗員・乗客243名もあのときのままで!
なぜ同一の飛行機は出現したのか? 人間コピーともいえる「重複者(ダブル)」が社会にもたらす混乱とは? 3月と6月、重複者(ダブル)の唯一の違いである3ヶ月の期間は人生をどう分岐させたか?
序盤は主に8人の搭乗者たちのエピソードが並び、スローペースで進むが、8個の小さな雪玉がころころと大きくなり、やがて勢い良く坂道を下っていく。最後に訪れるもうひとつの衝撃と強烈な皮肉は見事というほかない。
良質なミステリーやサスペンスは「再読に堪えうる」とよく言うが、この『異常』は少なくとも三度は楽しめる。一度目は手に汗握りながら一気呵成に。二度目は数奇な運命をたどる彼らの葛藤に想いを重ねて。そして三度目は作者が仕掛ける文学的企みを味わって。実は各章は犯罪小説、ロマンス、政治コメディ、さらには聴取記録やメールとスタイル・文体が異なり、パッチワークのような構造になっている。過去の名作文学や聖書を下敷きにした言葉遊びも豊富だ。作者のエルヴェ・ル・テリエは小説家、数学者、言語学者と多方面で活躍する才人。国際的な文学グループ「ウリポ(潜在的文学工房)」のメンバーでもある。本書はエンタメ小説の皮をかぶった、実験小説でもあるのだ。
さあ、この“異常”を目撃したあなたは何を思うだろうか。
Hervé Le Tellier/1957年、パリ生まれ。小説家、ジャーナリスト、数学者、言語学者など多方面で活躍。2020年、本作がゴンクール賞を受賞し、フランス国内で110万部を突破。40の言語で翻訳が決まっている。
うづきあゆ/ゲームコラムニスト、書評家。「S-Fマガジン」でファンタジイ時評欄を、「日刊SPA!」でコラムを執筆している。