『台北プライベートアイ』(紀蔚然 著/舩山むつみ 訳)文藝春秋

 探偵と街は良き相棒であり、恋人だ。ホームズとベイカー街、沢崎と西新宿、マーロウとロサンゼルス……。探偵は街に抱かれ、街は探偵を祝福し、時に束縛する。台湾発の私立探偵小説『台北プライベートアイ』もまさにそう。台湾では2011年に発表され、数々の賞を受賞している。

 主人公・呉誠(ウーチェン)が居を構えるのは、台北の南端にある、葬儀屋や葬儀用の紙細工店が並ぶ「死の街」臥龍街(ウオロンジエ)。盲腸からはみ出た虫垂のような横丁で、昼なお薄暗い。角を曲がって左側、六軒目の「珈比茶(ガービーチャ)カフェ」が臨時オフィスだ。巻き上がる埃に排気ガス、なんとも形容しがたい生臭さが漂う。

 帰宅前にかっこむ「168」の魯肉飯(ルーロウファン)、警官に奢った屋台の冷たい愛玉氷(アイユービン)、厄落としとして差し入れられた豚足入り煮込み素麺・猪脚麺線(ジュージャオミェンシェン)。時折挟まる台湾料理も日々の匂いを届ける。読者はいつの間にか、普段着の台湾にどっぷり浸かっているのだ。

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 もちろん、街の魅力だけではなく、探偵のアクの強さも私たちを惹きつける。大学教授で劇作家でもあった呉誠は、妻に去られた挙げ句、酒の席で演劇関係者に暴言を吐いて絶縁する。頭でっかちな不器用人間。そんな呉誠が教職も辞して、五十手前で始めたのが私立探偵。これまでのしがらみを思い切って捨て、クレイジーな直感と若い頃の憧れに従った。推理小説好きの五十の手習い。しかし、呉誠は最初に依頼されたささやかな家庭内トラブルの相談から、意外な真相を導き出した。はみ出し者のヒーロー誕生である。

 饒舌でシニカルな一人語りも芳香の強いスパイス。「台北は文明によって飼い慣らされることを拒否する都市だ」「列に並ぶ文化のない社会ほど、連続殺人犯は少ない」「日本人が酒を飲んだ途端に無礼きわまる醜態をさらすことはよく知られている。ちょうど笛吹きケトルのように」。演劇、探偵、殺人、日本、アメリカ、台湾……。大学教授が講義で語るこぼれ話の如く止まらない。私たちはこれに感心し、納得し、あまりの決めつけに苦笑し、そうしているうちに呉誠がいかに世界を観察しているかが見えてくる。歴代のハードボイルド探偵がたとえ寡黙を装っていても、頭のなかまで無口だった例しはない。そんな皮肉屋を気取った呉誠も、依頼人に恋をし、仲間の情に心揺さぶられる。人間・呉誠が描かれているのも本作の味わいだ。

 終盤は連続殺人犯との対決が繰り広げられ、怒濤の勢いで予想を超える結末へとなだれ込む。台北の六張犁(リョウチャンリ)地区で老人ばかりを狙う連続殺人犯の狙いとは? 窮地に立たされた呉誠が気付いた構図とは?

 台北の日常を見せる前半のゆったりしたペースが、後半のスリリングな展開に効いている。その対比も巧い。台湾では続編が今年の3月に出版された。日本でも「台湾探偵といえば呉誠」となる日も近い。

き・うつぜん/1954年、台湾・基隆生まれ。作家、劇作家、台湾大学戯劇学系名誉教授。2013年、「国家文藝賞」演劇部門を受賞。2011年に本書を発表、現在までにフランス、韓国などで刊行されている。今年3月、本書の続編となる『DV8』を刊行。
 

うづきあゆ/ゲームコラムニスト、書評家。「S-Fマガジン」でファンタジイ時評欄を、「日刊SPA!」でコラムを執筆している。

台北プライベートアイ

紀 蔚然 ,舩山 むつみ

文藝春秋

2021年5月13日 発売