帯の文言からして他人事と思えない。「いずれ終わりはくるけれど、『今』がずうっとつづくといいね」。
主人公のおもちさんは八三歳、北海道でひとり住まい。もとは畑仕事が趣味で、とれた野菜を近所の人に配っていた。ノートに何か書くのは今も好き。持病が進み認知の衰えも出てきて、ひとり暮らしが難しくなり、高齢者専用マンションへ移る。その日々を七章にわたり、おもちさんの視点で描いている。
できる限り家で生活し続けたい私は、軽いショックだ。おもちさんみたいな社交的で頭や体を動かす習慣のある人でも、無理なのか。誰もが老いを免れないと、厳粛な気持ちになった。
孤独な主人公ではなく、むしろ支援が行き届いている。ケアマネージャー、訪問看護師との関わり。息子は単身赴任中だが、その妻が近くに住んでしょっちゅう顔を出し、関係は良好。東京に住む娘も日に二度電話し、マンション入居にあたっては大働き。「しあわせ者」だと主人公自ら感じている。
だからこそ寂寞(せきばく)は深い。人に顧みられないためではなく、老いや認知の衰えに伴う根源的なものなのだ。
よるべなさ、もどかしさが様々に表現される。「スーッと音もなく次の間がひらき、そこから冷たい風が吹いてくるよう」「とても弱い者にされた気がする」「とにかく言うことを聞きなさいト、そうしていれば間違いないト」。情けなく、苛立ち、ときに小爆発を起こす。
私は主人公を父に、自分に重ね合わせながら読んだ。八五歳の父を、私を含めきょうだいで介護しやすい家へ転居させたが、本人の胸の内はどうだった? 本人の意志決定の困難と安全のためから、仕方なかったとは思うけど。私もいつかごはん作りすら苦になるのか。「看護師さんの詰所」のあるマンションは将来の住まいとして悪くはないが。
心は揺れるが、読んでつらくなる小説ではけっしてない。主人公の愛らしい性格、裏表のない登場人物、北海道の方言があいまって、明るくユーモラスである。
七章はいずれも「コスモス、虎の子、仲よしさん」というような三つの語句を題に冠する。関連を示さず並べてあるだけなのが象徴的だ。いずれも主人公の心や思い出の中でたいせつなもの。読んでいくうちに知る。おもちさんて昔デパートガールだったのか。夫はプリンが好物か。夫の背中につかまって流星の降ってきた方角へオートバイをとばした日もあったのだ。
おもちさんをかたちづくる、キラキラした断片だ。人と共有できる文脈や時系列に沿った配置は、もうできなくなっているけど、輝きは褪せるどころか、よりいっそう増している。最終章に出てくる、それは美しい金色の夕陽もそのひとつ。
誰の中にもキラキラが詰まっている。過去だけではない、今日も明日も、終わりの日までキラキラを溜めていく。そう思える。
あさくらかすみ/1960年、北海道生まれ。2003年「コマドリさんのこと」で北海道新聞文学賞、04年「肝、焼ける」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。09年『田村はまだか』で吉川英治文学新人賞、19年『平場の月』で山本周五郎賞を受賞。
きしもとようこ/1961年、神奈川県生まれ。エッセイスト。近著に『週末介護』『ふつうでない時をふつうに生きる』『句集 つちふる』。