1990年の入管法改正によって日系ブラジル人の無期限就労が可能になり、愛知県豊田市周辺には、自動車関連企業への出稼ぎを目的としたブラジル人住民が増加した。移住してきた彼らの多くが住居に選んだのは、周辺の物件に比べて賃料の安い「保見団地」だ。すでに団地に暮らしていた日本人と、生活習慣の異なる日系ブラジル人。両者の間に起こった軋轢とは。

 ここでは、ジャーナリストの安田浩一氏の著書『団地と移民 課題最先端「空間」の闘い』(角川新書)の一部を抜粋。保見団地に住み、自発的にごみステーションの掃除を行う男性、藤田パウロ氏(73)の経験から団地の歴史を振り返る。(全2回の2回目/前編を読む)

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小さなブラジル

 保見団地は1969年に当時の住宅公団と、愛知県によって共同開発された。入居が始まったのは1975年である。丘陵を削って開発された大型団地は、近隣の豊かな自然と、商店街など充実した生活環境で評判を高め、一時は1万2000人もの住民を集めるまでになった。

写真はイメージ ©iStock.com

 ここに日系ブラジル人が暮らし始めるようになったのは80年代後半から。入管法改正によって日系ブラジル人の無期限就労が可能となった90年からは一気に急増した。

 周辺の自動車関連企業へ通勤しやすいといった地の利の良さと、民間マンションと比較して安い家賃が、ブラジル人を引き寄せた。また、派遣会社もブラジル人のための寮として、大量に部屋を押さえるようになった。

 いまでは全住民(8000人)の約半数がブラジル人など日系南米人で占められている。

 まさに「小さなブラジル」だ。

 団地内を歩くとそれを実感する。

重労働よりこたえた、日本の物価の高さ

 耳に飛び込んでくるのは情感豊かな響きを持つポルトガル語だ。団地内の看板も、日本語とポルトガル語が併記されている。商店街の中心部に位置するスーパーもブラジルの食材が豊富で、もちろん店員の多くもブラジル人である。

 ブラジルの街角で見られるようなカフェも、そしてポルトガル語の看板が掲げられた美容院もある。

 だが、藤田が団地住民となったばかりのころは、まだブラジル人は少数派だった。言葉も不自由、しかも仕事を覚えるので精いっぱい。生活を楽しむ余裕などなかったという。

「勤めたのはトヨタ車のバンパーなどをつくる工場でした。時給1500円です。ブラジルでは考えられない高給与でした。しかし、仕事はきつかった」

 このときすでに40代の半ば。重労働は体にこたえた。

 だがそれ以上にきつかったのが日本の物価の高さだった。