文春オンライン

2022/04/08

genre : ライフ, 社会

修羅と葛藤の日々

「おそらく、次男は私のことを許せなかったのでしょう。当然です。次男が悪くないことは私が一番よく知っています。だからこそ、私に裏切られたと思ったのでしょう」

 その日以来、次男は「勉強したくない」といい出すようになった。学校も休みがちになった。

 修羅と葛藤の日が続いた。

「そのことにはあまり触れたくない」と藤田は苦しげな表情を浮かべていう。

 そうだろう。おそらくは消してしまいたいような日々が繰り返されたことであろう。それは、他人に嬉々として話せるような内容ではないはずだ。

 現在、次男は結婚して、幸せな生活を送っている。孫を連れて藤田のところを訪ねることも少なくない。

「それで満足です」

 その短い言葉に、親子がたどり着いた地平を思った。親子だけが知る長い物語は、けっして悲劇で終わらなかったことを知っただけでも、私は安堵した。

保見団地抗争

 90年以降の保見団地の歴史は、日本人とブラジル人の対立の歴史でもある。

 ごみ出しをめぐるトラブルがあり、騒音や生活習慣をめぐるトラブルがあった。日本人住民による差別や偏見は、ブラジル人を“外敵”のように扱った。

 一方、日本人住民の側からすれば、ブラジル人こそが、侵略者だった。ルールを守らない。わがまま。騒々しい。

 分断と亀裂は、その後、大事件に発展する。

 1999年。俗にいう「保見団地抗争」が起きた。

 きっかけは些細なトラブルだった。深夜、団地内に出店するラーメン屋台で、地元の若者グループが食事していた。そこにたまたま通りかかったブラジル人少年を、グループのひとりがからかった。ブラジル人であることを笑いものにされた少年は、よほど悔しかったのであろう。団地内に住む仲間の少年を呼び寄せ、日本人グループと殴り合いのケンカとなったのである。

 ここまでは、けっして珍しくはない団地の風景だった。ケンカは日常茶飯事だったのだ。

 だが、そのときは一線を越えた。翌日、日本人グループは報復に出た。全員が鉄パイプや木刀で武装し、前夜のケンカに参加した少年たちを捜して歩いた。結局、目指す相手を見つけ出すことはできなかったが、腹いせにブラジル人が所有する自家用車を鉄パイプで滅多打ちにした。

 騒動は続く。数日後、保見団地に現れたのは右翼団体の街宣車と、数十台のバイクを連ねた暴走族である。団地内を走り回りながら、大型のスピーカーから「ブラジル人を叩き出せ!」とがなり立てた。いまでいうところの“ヘイト街宣”である。

 翌日夜。今度は保見団地の敷地内に停めてあった右翼団体の街宣車が、何者かによって放火された。街宣車は炎上し、丸焦げとなった。