三谷幸喜氏が脚本を務め、大河ドラマファン以外からも大きな評判を呼ぶ『鎌倉殿の13人』。物語はまもなく鎌倉幕府の成立を迎える様相だが、製作陣は時代が変わる瞬間をどのように描くのだろうか。
ここでは、歴史学者・本郷和人氏の著書『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書)の一部を抜粋。“幕府創設”の瞬間について、残された史料をもとに、“創業者”頼朝が見据えていたビジョンを紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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朝廷内の権力闘争が武士台頭のきっかけに
武士の誕生には長年の論争があります。それは簡単に言えば、武士のルーツは都か田舎かという議論です。「田舎の武士」は、武装化した在地領主です。それに対して、「京武者」といって天皇や朝廷、上級貴族などの警護を行なってきた警察、もしくはボディガード的存在がそもそものルーツである、という議論です。
私は「田舎の武士」を重く見る立場です。京武者といっても、当時は都を少し離れれば、弱肉強食の世界でした。京都周辺で武装化した在地領主を、都に連れてきて傭兵化したのが京武者であろうと考えています。
たとえば後に都で政権を握ることとなる平家にしても、実は源氏よりも先に関東で勢力を広げていました。平将門の乱(935~940年)も、下総、上総の平家一門の争いがきっかけで、これを鎮圧したのもやはり平家の平貞盛でした。まず関東で勢力を広げた平家のなかで、もっと豊かな西国に移ろうと考えた一族が、平清盛を生んだ伊勢平氏です。それで、平家が去った関東に、今度は源氏が入り込んでくるのです。
では平家と源氏の決定的な違いはどこにあったのでしょうか。
そもそも中央政治において、源平に代表される武士の台頭のきっかけをつくったのは後白河天皇(1127~1192)のブレーン藤原通憲(信西)だといえます。信西は、近衛天皇の崩御に乗じて、後白河天皇を即位させることに成功し、崇徳上皇との間で起きた保元の乱(1156年)でも勝利を収めました。このとき、信西は平家、源氏など武士たちを集め、武力によって決着をつけたのです。これは政治に武力行使を持ち込まないという平安350年の伝統を破るものでした。つまり、朝廷内の権力闘争が、武士の政治介入を招いたのです。