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源頼朝はなぜ「鎌倉」に幕府を開いたのか…史実を追って見えてきた“創業者”頼朝のヴィジョンとは〈『鎌倉殿の13人』の時代〉

『承久の乱 日本史のターニングポイント』より #4

2022/04/17

source : 文春新書

genre : エンタメ, テレビ・ラジオ, 歴史, 読書

note

苦しい時代をともに戦った東国領主たちと

 このとき頼朝に従ったのは、舅の北条時政とその家来たち、地元の仲間を合わせて90人あまりでした。まず伊豆の目代(代官)である山木兼隆を討ちとったのは良かったのですが、相模の石橋山の戦いで平家方に大敗北を喫します。真鶴半島から船で房総半島に逃げた頼朝は、その地で千葉常胤(1118~1201)、上総広常(?~1183)といった在地の豪族を味方につけ、わずかひと月で大軍を率いて隅田川を渡り、武蔵国の河越重頼、畠山重忠(1164~1205)らを従え、相模に戻りました。そして、鎌倉に入り、そこを本拠地とします。

 私は、この時、事実上、鎌倉幕府は誕生したと考えています。なぜなら、この時点で、頼朝を主人として、東国を拠点とする在地領主たちの集団という、鎌倉幕府のコアの部分がすでに成立しているからです。

写真はイメージです ©iStock.com

 また、ここに挙げた人々は初期鎌倉幕府において非常に重要な役割を果たします。頼朝が平家を討ち、武士の首頂となった後も、最も重用したのは、最初の蜂起の前から支援してくれていた人たちや、一緒に兵を挙げた仲間だったからです。

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 現代の企業でも、創業の苦労を分かち合ったメンバーや、最初に出資をしてくれた人たちは大切にされます。それも当然で、創業者からすれば、成功の約束など何もないのに、自分の決断を支持し、一番苦しいときをともに戦ってくれたわけです。北条時政は伊豆の小領主に過ぎませんでした。鎌倉幕府の公式歴史書ともいえる『吾妻鏡』によると、最初の合戦に時政が動員できたのは50人程度。自分も命を賭けた戦いですから、目いっぱい頑張って集めてたった50人です。そしてそれが頼朝軍の主力部隊でした。時政は賭けに勝ったのです。