「京都に行かない」決断の意味
鎌倉に居を構えた頼朝軍は、1週間後には駿河に入り、富士川の戦いで平家の大軍を破りました。まさに破竹の勢いです。このとき、『平家物語』には平家方7万人、源氏方20万人と書かれていますが、大嘘です。いくらなんでもありえません。当時の貴族の日記には、平家が4000人の兵を集めたが、見たこともない大軍だと記されています。少なくとも20倍くらいに水増しした数字でしょう。この割合でいくと源氏は1万人となりますが、それでも頼朝軍旗揚げの時からすれば、100倍くらいの急成長ぶりです。
このとき、決定的な局面が訪れました。このまま軍を京都に向かわせようとした頼朝の前に、千葉、上総、三浦義澄(1127~1200)といった面々が立ちはだかり、それを止めるのです。「そのほかの驕者、境内に多し」すなわち、まだ関東には佐竹氏をはじめとして頼朝に従わない者も少なくない、それを平らげてから、西を目指すべきだ、諫言したのです。
この諫言の意味するところはきわめて重要です。これは単に京に一気に攻め上るべきか、足元を固めるべきかといった戦術論にとどまりません。千葉ら関東の在地領主が何を求めて頼朝に従い、命がけで戦ってきたかをあらわしているからです。
朝廷支配からの脱却を求めて
彼らが求めたものは、平家の討伐などではなく、まず「境内」、すなわち東国の新しい秩序の樹立でした。そのトップとなることを、頼朝に求めたのです。また彼らが平定すべき敵として挙げた常陸の佐竹氏は源氏の名門です。関東武士にとって問題は源氏か平家かではない。あくまでも旧来の朝廷=国衙による支配に甘んじるのか、在地領主の権利の保障を最重要事項とする、新しい体制を作り上げるのかという選択だったのです。
おそらく当時の東国武士たちは、このように大局的な見方をしていたわけではなかったと思います。中央から何の援けもなく、ただ収奪されるだけの現状への不満、そして、自らの武力がそれまでの悲惨な状態を打開する力でもあることへの気付きが、一連の戦乱のなかから生まれてきつつあった。
頼朝は京都で少年時代を過ごした京都人です。都の豊かさも知っている。平家を打ち払い、朝廷を中心とする政治体制から莫大な利得を手にするという選択肢もあったはずです。しかし、彼はその進言を受け入れました。これが鎌倉幕府の運命を決めました。「武士の、武士による、武士のための政権」の道を選んだのです。
公地公民という理念で土地に介入してくる朝廷の支配に対し、在地領主がいかに自分たちの力を結集し自前の安堵を勝ち取るか。この頼朝蜂起のときの大テーマは、実は、承久の乱での鎌倉勢の結束にもつながっているのです。
【前編を読む】 〈鎌倉時代の権力争い〉権利を守ってくれる法もない、治安を司る警察もいない…弱肉強食の時代に“源氏”“平家”が権威を高められた“納得の理由”