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“創業者”頼朝のヴィジョン

 会社のありかたは創業者で決まる、とはよく言われますが、鎌倉幕府のありかたも、当然、創業者である頼朝のヴィジョンに負うところが大きい。

 では、頼朝とはどんな人だったのでしょうか。まずは血筋です。後三年の役(1083~1087年)を起こした源義家を祖先に持ち、義朝を父とする頼朝は、母方の家柄の良さ(熱田神宮の大宮司の娘)もあいまって、三男なのに生まれた時から源氏の跡取りとみなされていました。

 平治の乱で父・義朝が敗れたとき、長兄・義平は捕らえられて殺され、次兄の朝長は平家との戦で矢傷をうけ自害します。そして、父と離れて逃げていた14歳の少年、頼朝も平家方に捕らえられてしまい、殺される寸前でした。

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 清盛の継母・池禅尼の助命によって、なんとか命だけは助けられましたが、伊豆国の蛭ヶ小島に流されます。このとき清盛が頼朝を殺していたら……というのはしばしば言及される歴史のifですが、これは当時の東国がいかに過酷な辺境だったかを物語るものでしょう。清盛にしてみれば、伊豆の小島のような地の果てに流してしまえば、殺したも同然だったわけです。

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 この流人時代に頼朝に仕えていたのが安達盛長(1135~1200)でした。盛長の妻、丹後内侍は、頼朝の乳母だった比企尼(生没年不詳)の長女でした。この比企尼は流人の頼朝に米を送り続け、娘婿である盛長や河越の豪族、河越重頼(?~1185)らに援助を頼みます。

 そして、伊豆で頼朝の監視役となったのが地元の領主・北条時政(1138~1215)でした。やがて頼朝は時政の娘、政子と結婚します。ちなみにこの政子とは、後に京都にのぼって天皇、上皇の前に出るときに時政の一字をとってつけられたもので、頼朝は政子とは呼んでいなかったはずです。この時期の頼朝に関する史料はほとんどありません。

 頼朝が歴史の舞台に現れるのは、先にも述べた治承四(1180)年のことです。頼朝の乳母の妹を母に持つ下級貴族、三善康信(1140~1221)は、以仁王が討ち取られ、平家が以仁王の令旨を受け取った全国の源氏の討伐を計画しているとの報を頼朝に伝えました。それを受けて、頼朝は反平家を掲げて蜂起します。