源平の戦いは「在地vs.中央」だった
そして平家と源氏の両者が正面から激突したのが、平治元(1159)年の平治の乱でした。ここで勝利に決定的な役割を果たした平清盛は、武士でありながら、中央の貴族として昇進を遂げていき、敗れた河内源氏の棟梁、源義朝は京都を逃れ、東国へ逃げる途中、尾張で騙し討ちにあい、殺されてしまいます。この義朝の三男が源頼朝であり、平家を倒すのですが、ここで問題です。
平家滅亡、鎌倉幕府の成立に至る一連の戦い、学術的にいうと「治承・寿永の内乱」は、俗に源平の戦いともいわれますが、この戦いは誰と誰との戦いでしょうか?
言うまでもない、清盛と頼朝、平家と源氏の戦いだという答えには、満点はあげられません。治承3(1179)年、清盛は後白河上皇を幽閉し、軍事政権を樹立します。それに対し、翌治承4年、以仁王が平家打倒を呼びかける令旨を出し、各地の武士が次々と蜂起しました。まず頼朝が立ち、木曽の源義仲(1154~1184)も挙兵します。
その後、近江、美濃、河内でも源氏の旗のもと結集するケースが目立ちますが、肥後の菊池氏や伊予の河野氏、北陸の在庁官人のように、単独で反平家に立ち上がったグループもありました。そして、いずれのケースもまず国衙を攻撃し、その地方の支配権を握ろうとしているのです。
つまり、源平の戦いとは、源氏対平家という武門同士の戦いではなく、在地領主対朝廷政権の戦いだったのではないか。その意味で、平家政権とは、あくまでも軍事力によって都を支配する、朝廷の政治体制だったといえます。反平家で次々と立ち上がった武士たちが目指していたのは、中央政治の主導権を平家から奪うことではなく、それぞれの土地で自分たちの在地権力を確立することだった。そう私は考えます。
そして最終的に「武士の首頂(トップ)」となり、東国に在地領主である仲間たちとの政権を築くのが源頼朝だったのです。