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まるで「善きサマリア人のたとえ」のような出来事が

「まだ日本で新米牧師をしていた頃、大阪・西成を訪れたことがありました。泥酔して道に寝転んでる奴がたくさんいたのですが、その中に1人だけ車椅子を横にして倒れ、じっとこちらを見ている人と目があったんです。『嫌なもの見ちゃったな』と通り過ぎようとしましたが、『待て、俺は牧師だった』と思い、引き返しました(笑)。これで通り過ぎたら『善きサマリア人のたとえ』で怪我人の前を素通りした司祭と同じじゃねえか、と」

©️文藝春秋

「善きサマリア人のたとえ」とは、「永遠の生命を受けるために何をすべきか」と学者に尋ねられた際、イエスが隣人愛について語る、新約聖書では最もよく知られた例え話だ。道端で強盗に襲われ怪我を負った人を、通りがかりの司祭らが見捨てたが、当時ユダヤ人と犬猿の仲だったサマリア人だけが立ち止まり助ける。

 敵味方に縛られず、憐みを必要とする人は助けよというエピソードだ。

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「その人は障害を持っていたのか、全然喋ることができず、自分で動くこともできなかった。とりあえず車椅子に乗せようと膝を抱え込むと、ズボンがぐちょぐちょ。糞尿垂れ流しの状態だったんです。乗せ終わると、聞き取りにくい声で『ありがとう』と言ってくれました。

 周りにはたくさん人が集まっていたのですが、『どこか手を洗うとこありますか?』と聞こうとすると、バッと皆逃げていった。さっきまで大阪の人は道を聞けば連れてってくれるし、皆親切な人ばかりだった。もしかすると、倒れていた人は、悪名高い人だったのかもしれない。いずれにせよ俺が嫌われた理由はただ1つ。それは“嫌われ者”と関わったことでした」

もう一度同じことができるだろうか?

 もしこの結果が分かっていたら、自分はこの人を車椅子に乗せただろうか、と今でも自問することがある。

「神学的根拠もあるのですが、私は『善きサマリア人のたとえ』の怪我人を助けたサマリア人は、イエス様ご自身だったと思っているのです。もう一度、ゴールデン街で西成と同じ場面にあったら……手を差し伸べることができるだろうか? でも、イエス様はやりましたよ」

©️文藝春秋

 そんなかつての葛藤を抱えているからこそ、なのだろうか。今日もゴールデン街に愛を届けようと、酒場牧師は奔走している。

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