新潟出身の政治家である佐藤隆は、1973年に個人災害制度小委員会の委員長として「災害弔慰金の支給等に関する法律」を成立させた。それは、災害の多い国・日本において災害公助の先駆けとなった制度である。
ここでは、「災害関連死」に焦点を当てたノンフィクション『最期の声』より一部を抜粋。後に佐藤を災害支援の道へ突き動かすきっかけにもなった、1967年の羽越豪雨による悲劇を紹介する。その日、佐藤の父母と息子たちが泊まっていた宿の女将・荒木は、一本の電話を受けた――。(全2回の2回目/前編を読む)
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28日夜、荒木は、佐藤芳男の息子である隆の妻燿子から電話を受ける。
荒木が、芳男の妻イツに電話を代わると燿子は「お義母さん、雨が激しいから、子どもたちを迎えに行きましょうか」と話した。
イツは豪雨のなか帰宅するよりも、気心の知れた宿で、一夜を過ごした方が安全だと考えたのだろう。
「もう遅いし、子どもたちはみんな寝たから、明日の朝、雨が弱まってから帰りますよ。心配しないでいいですよ」
このとき、まだ誰も、その後の悲劇を予想していなかった。
迎えに行かなかった燿子にとって、生涯にわたる後悔が残る。なぜ、無理をしてでも子どもたちを迎えに行かなかったのか。自然災害の悲劇は、必ず後悔をともない、残された人をさいなみ続けるのである。
午後10時ごろになると、長生館も慌ただしくなる。数日の降雨により、あちこちの川がはんらんし、交通がマヒしている。農地に水があふれ、床上浸水の被害も出はじめた。
長生館には宿泊客以外は、荒木ひとりしか残っていなかった。従業員は12、3人いたが、若い男たちは地域防災で出払って、ほかは帰宅していたのである。