午前8時過ぎには、生き埋めになった5人が次々と発見された。みな浴衣を着たままだった。そんななか、9歳の次男、徹は足を骨折し、重傷ではあったが、意識がはっきりしていた。しかし徹以外の4人は救出された時点で、死亡が確認された。
遺体は、もうひとつの離れの大広間に並べた布団に寝かされた。11歳の長男元泰と5歳の三男薫の小さな遺体が、救出にきた人たちや、居合わせた関係者の涙を誘った。
「記憶はところどころ薄れているんだけど、変なことだけは鮮明に覚えているんですよ」と荒木は語る。
若い女性が土砂や瓦礫の撤去を手伝っていた。芳男が懇意にしていた新潟市内の飲食店を営む女性である。親しい常連客の安否が気になり、長生館に駆け付けたのだ。いつも溌剌として、人目を引く華やかな着物やドレスを身にまとう彼女がモンペ姿で、土砂や瓦礫を黙々と片付けていた。
災害という非常時には、ときにアンバランスな情景が出現する。日常とひどくかけ離れた風景だからこそ、荒木の記憶に深く刻み込まれたのかもしれない。
自然災害による不幸は、誰の責任なのか
〈変りはてていた。何もかもが、土砂に汚れ、水にぬれ、変りはてていた〉
父母と2人の息子の遺族となった佐藤隆は、『個人救済制度』に被災地となった長生館の様子をそう綴る。
早朝、家を飛び出した隆夫妻だったが、途中、新潟県警のパトカーに先導されて新潟県庁まで行き、そこで東北電力のヘリコプターに乗り換え、ようやく長生館にたどり着いた。
正午過ぎ。父と母は、2人の息子の遺体に対面する。涙があふれ、言葉が出なかった。救出された次男の徹は、長時間、冷たい水に浸かった影響で予断を許さなかったが、人工呼吸器で酸素吸入を受けながら命をつないでいた。
それだけが、たったひとつの救いだった、と隆は率直な思いを記す。
生存者ゼロと生存者一。なんと大きな違いであろうか。(略)もし、二男も残らずに全滅していたなら、妻は気を狂わせたかもしれない。私とて同じ思いに、どのようになっていたか想像することさえ怖ろしい。
彼は次のように問いかける。
自然災害による不幸は、誰の責任なのか——。
災害により、父母と愛息を喪った不条理な体験から生まれた問いが、政治家、佐藤隆の原点となった。