1ページ目から読む
2/5ページ目

 落合は、どんな状況でも自分のためにプレーすることを選手たちに求めてきた。だから、落合と選手の間には、熱したり冷めたりするような感情そのものが介在していなかった。

「監督から嫌われても、使わざるを得ないような選手になれよ」

 この8年間、荒木はスタジアムからスタジアムへ全国を転々とする日々の中で、落合の内面を覗ける機会をうかがってきた。最大のチャンスは、遠征先でのナイターの後だった。球場からホテルへ戻ると多くの選手は街へと繰り出していくが、荒木はホテル内に設営されたチームの食事会場へ向かうことが多かった。そこにはいつも落合がいたからだ。

 人の少ない時間を見計らって会場にいくと、選手とは別の、コーチングスタッフ用テーブルにいる落合から声をかけられることがあった。

ADVERTISEMENT

「お前ひとりか? それなら、こっちで食えよ」

 焼酎グラスを片手にゆっくりと箸を運ぶ落合は、グラウンドにいる時よりも少しだけ饒舌になった。荒木はそこで指揮官の胸の内を垣間見てきた。そうやって積み重ねてきた会話のなかに忘れられない言葉があった。

 ある夜、荒木はずっと抱えてきた疑問をぶつけてみた。

「使う選手と使わない選手をどこで測っているんですか?」

 落合の物差しが知りたかった。

 すると、指揮官はじろりと荒木を見て、言った。

「心配するな。俺はお前が好きだから試合に使っているわけじゃない。俺は好き嫌いで選手を見ていない」

 荒木は一瞬、その言葉をどう解釈するべきか迷ったが、最終的には褒め言葉なのだろうと受け止めた。

「でもな……この世界、そうじゃない人間の方が多いんだ」

 落合は少し笑ってグラスを置くと、荒木の眼を見た。

「だからお前は、監督から嫌われても、使わざるを得ないような選手になれよ──」

 その言葉はずっと荒木の胸から消えなかった。

 このチームにおいて監督と選手を繋いでいるのは、勝利とそのための技術のみだった。だから、去りゆく落合を胴上げするために戦おうと考える者もいなければ、惜別の感情も存在しなかった。そもそも落合自身がそんなセンチメンタリズムを望んでいなかった。これまでと何ら変わらないはずだった。

荒木雅博氏 ©文藝春秋

 それなのに、落合の退任を耳にした瞬間に、自らの内面に生まれたものがあった。

 これは、なんだ……。

 なぜ胃の痛みが消えたのか。なぜ不安に襲われないのか。荒木は自問しながら、自分が覚醒していくような感覚に満たされていた。