目的のない、あるいは漠然とした目的しかないリハビリと、明確な目標を持ってのリハビリとでは、訓練に取り組む患者の意識はまるで異なるものだ。
この時、原田は密かに思った。
「このリハビリを続けていけば、いずれ医師としての職場復帰も無くはないぞ」
もちろん客観的に見れば、それがきわめて困難な目標であることは確かだった。復帰どころか「寝たきり」も覚悟しなければならない状態なのだ。
リハビリ病院のソーシャルワーカーからは、寝たきりでも受け入れてもらえる施設を紹介された。それは原田が医師として働く場ではなく、寝たきりでの生活を送る場としての紹介だった。何より、妻のみつるでさえそれを想定していたという。
「脊損と聞いた時点で、2つのことを覚悟しました。1つは、子どもたちを育てるためには私が働かなければならない、ということ。2つ目は、私には主人の面倒は見られないので、施設に入ってもらう、ということ。特に2つ目の覚悟は、妻として“冷たい”と思われるかもしれないし、我ながらドライな判断だとは思いました。もし私が看護師でなければ、すべてを捨てて献身的に看病しようとしたかもしれないし、奇跡が起きるように祈ったかもしれない。でも看護師として、医療者の目で主人の状況を見れば、それが無理なことは明白です。もし私が主人の立場だったら、一緒になって悲しんでほしいとは思わないはず。私はドライに考えようと決めました」
親友との再会
高志リハビリテーション病院で、2010年6月5日まで機能回復訓練を行った原田は、元の勤務先である飛騨市民病院に転院する。
飛騨に移ってからもリハビリは続けたが、病院には在院期間の制限があり、いつまでも入院してはいられない。まして飛騨市民病院は急性期病院であり、原田はこの病院が本来対象とする患者ではないのだ。
そんなある日、1人の男が病室を訪ねてきた。中学時代からの親友、糸田昌隆だった。
高校卒業後は岐阜歯科大学(現・朝日大学歯学部)に進んだ糸田。大学卒業後は大阪府下の歯科開業医院に入職する。しかし、小児の噛み合わせ治療の技術を身に付けたいとの思いから大阪歯科大学に入局。そこからの派遣歯科医として大阪府大東市にある「わかくさ竜間リハビリテーション病院」で嚥下機能や咀嚼そしやく機能のリハビリに取り組んでいたのだ。
2人と中学高校で同級生の立石裕明が、たまたま同窓会の連絡で原田の自宅に電話をしたことで、妻のみつるから原田のケガと入院生活を知らされた。立石からその知らせを受けた糸田は大いに驚いた。