「北の国から」誕生のきっかけは…
そんなさだにとって、歌詞はなくメロディラインをハミングなどで歌うインストゥルメンタルの「北の国から」はまさに面目躍如といえる。言わずと知れた倉本聰脚本の同名ドラマのテーマ曲だ。放送開始の前年の1980年暮れ、札幌でのコンサートの翌日に倉本の家へ招かれ、ドラマの最初の2回分のビデオを見せられると、その場で音楽を依頼された。何度も映像を見て考えた末、ようやくメロディができてギターを弾いたが、言葉が出てこず「ああー」とメロディラインを歌ったところ、倉本からOKが出たという。《言葉がなくても歌は成立するんだなぁ、と勉強になりました。言葉があったら飽きられていたかもしれない、とも思います》とさだはのちに語っている(※1)。
もちろん、さだの曲には、物語の形をとった歌詞で印象に残るものも多い。初めてこの形式を取り入れたのは、グレープの2ndシングル「精霊流し」(1974年)だった。彼の故郷・長崎の精霊流しでは、新盆の家が船をつくり、親類や友人が集まって故人の霊魂を流す。前年に同い年のいとこが海の事故で亡くなったことや、地元の恩人である実業家・作家の宮﨑康平の強い勧めもあって、この行事を歌うことになった。そのために物語のディテールをまずつくり、初めて身を削るようにして詞を書き上げたという。
「軟弱」「右翼的」という批判もあった
「精霊流し」はヒットし、日本レコード大賞の作詩賞も受賞する。しかし、それからというもの詞ばかりがあれこれ論評されるようになり、彼を悩ませることにもなった。ソロになってからの最初のヒット曲「雨やどり」(1977年)では、軒下で雨やどりしていた女性がたまたま出会った男性と恋に落ち、プロポーズされるまでを掌編小説のように歌い、人気を博すも“軟弱”と批判もされた。
その後もさだの曲をめぐって世間ではたびたび賛否分かれて議論が持ち上がる。男性から結婚する女性への要求を並べ立てて歌にした「関白宣言」(1979年)には、“女性蔑視”だの“熱烈な夫婦愛の表現”だのさまざまな声が上がり、社会現象にまでなった。日露戦争を描いた映画『二百三高地』の主題歌としてつくられた「防人の詩」(1980年)では、映画のイメージもあいまって“軟弱”から一転“好戦的な右翼”とのレッテルを文化人などから貼られる。
しかし、命の尊さを歌ったつもりだった彼にはそうした反応は心外であった。あまりに音楽とは違うところで批判されることにショックも受けた。「これが伝わらないところでやっていてもしょうがない」と、歌手をやめようとさえ思ったという。そこで向かったのが中国だった。鄧小平による改革開放路線が始まったばかりの1980年、大河・長江を源流へとたどりながら各地の人々や歴史を描くドキュメンタリー映画『長江』を撮影し、翌年公開する。