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 過去には最大で15個のカプセルを所有し、保存派の立場でプロキシー・ファイトを闘った前田氏。中銀カプセルに関与するようになったきっかけは、建て替えが決議された2007年後に「売りカプセルあります」というビラを目にしたことだそうだ。カプセルとの思い出についてこう語る。

中銀カプセルへの思いを語る「保存・再生プロジェクト」主宰者の前田氏。ビルをモチーフにしたTシャツを着用していた。

「最初にこの建物を目にしたのは、40年以上前、家族旅行の時でしょうか。当時の汐留には国鉄の操車場があって、今のようなビル街ではなかったんです。その頃に首都高からよく見えたので、ずっと記憶に残っていました。その後は近所の会社に勤めるようになって、気にしてもいたのですが、巡り巡って所有するようになりました」(前田氏・以下同)

カプセルの真円形の窓からは高層ビル群が覗く。まさしく大都市メガロポリスの風景。

 築50年を迎える中銀カプセルタワービルは、東京のランドマークとしても古株に数えられる。昭和期の東京で異質感を醸したタワーの偉容が、今日では「思い出の建物」になっているのもうなずける話だ。

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取り壊しの決め手は“兵糧攻め”

 いかに未来的な外観といえど、ビルそのものは老体である。経年にしたがって住環境は悪化するいっぽうで、過去数年の間に、カプセルを愛する保存派オーナーでさえも退去を進めたという。

訪れたユニットには、竣工当時の備品(オプション)が残っていた。ソニーといえば当時「未来派」の家電ブランドだった。

「退去の決定打となったのは、1階にあったコンビニの撤退ですね。それ以外にも、給湯管が壊れてお湯が出なくなったりとか、いろいろと問題があります。独特の構造のため、手の入れにくい建物になってしまっているのです。たとえば、エアコンの取り付け工事にかかる料金もケタが違いますよ」

いわゆる三点ユニットバスだが、空間にゆとりがあるとは言い難い。お湯が出ないため、住民は銭湯や、スポーツジムのシャワールームを利用しているという。

 昨今では持ち物を最小にしようという「ミニマリズム」のライフスタイルも広まっているが、中銀カプセルはいわばその元祖である。そもそもカプセル内にはキッチンスペースがなく、商店や飲食店にその機能を代理させるという設計思想だった。したがってコンビニの閉店で、タワーは生命線を断たれた形となった。前田氏はこれを「兵糧攻めだ」と笑う。

四畳半が立体的に並ぶ“変人長屋”に!?

首都高は1972年の竣工当時も存在したが、向かいに立つ電通ビルなどの高層建築は当時は存在しなかった。

 カプセルの丸い窓から街を眺めると、タワーを写真に収めようとする人の姿がよく目に映る。ちょうど取材前、筆者も近傍の歩道橋からiPhoneで撮影したばかりだったので、はっとさせられた。全国民がカメラ付きのスマートフォンを持ち歩く時代といえど、こういう経験ができる建物は希少だ。