日本の現代建築として最も特徴的な建物の一つである「中銀カプセルタワービル」。その解体が、ついにはじまることになった。

 建築家・黒川紀章が設計し、1972年に建設された「メタボリズム(建築を生命体のように新陳代謝させる建築運動)建築」の代表格。銀座8丁目の好立地に建てられたあまりに印象的な建物は、まさに20世紀の日本を代表する存在として、国際的に認知されてきた。

 この建物は一体、どのような歴史を歩んできたのか。ここに当時の記事を再公開する(初出:2021年6月19日。年齢、肩書等は当時のまま)。

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「東京の住まい」と聞いて、真っ先に思い浮かぶのが手狭なワンルームである。東京の住宅難は江戸開府以来の難題で、都会に満足いく住空間を持つことは難しい。昨今では林立するタワーマンションが都市の輪郭を天へと押し上げているが、修繕問題やエレベーターの待ち時間、気圧差による体調不良など、高くて困るのは値段ばかりではないようだ。

 さて、東京の狭小住宅を代表する存在が、建築家・黒川紀章による「中銀カプセルタワービル」(1972年竣工)である。その外観は蜂の巣とも、洗濯機を積み重ねたようとも形容される。建築史上のメルクマールとして扱われており、世界的に有名な近代建築だ。

経年した鉄板による外観には、独特の味わいがある。

 四畳半にすべての機能を詰め込んだ、独立性の強い個人用カプセルが無数に並ぶ高層ビル。住空間として見れば“不足”の一語に尽きるが、黒川は元来これを「ビジネスカプセル」と謳っており、都会におけるセカンドハウス、もしくは前哨基地(戦場の最前線に置く基地)のような利用法が期待されていた。

 このビルがいま、取り壊しの瀬戸際に立たされている。解体派と保存派のプロキシー・ファイト(委任状争奪戦)も終わり、建物は業者の手に渡った。早ければ来年にも解体工事が始まる見込みだという。

ビル街ではなかった頃の汐留…首都高からよく見えたその姿

近傍の歩道橋より、首都高越しに中銀カプセルタワービルを望む。

 もっともこの建物、取り壊しが俎上に載るのは今回が初めてではない。2007年にも区分所有者によって建て替えが決議されたが、跡地にマンションを建設する予定だった業者が倒産し、決議が無効となった経緯がある。

 しかしいよいよ、名建築の命運は迫っているようだ。中銀カプセルタワービルの「保存・再生プロジェクト」を主宰する前田達之氏に訊くと――。

「残念ですが、取り壊しはほぼ決まった情勢です。設計当初は、躯体だけを残してカプセルを適宜更新する予定だったのですが、それもうまくいきませんでした。内装を思い思いにカスタマイズしている人はいますけれど、黒川が目論んでいたカプセル交換は、結局一度も行われていませんね」