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「山健組にあらずんば、山口組にあらず」“武闘派”だったはずが…求心力を失う一因となった5代目山口組組長の“動揺”

『山口組分裂の真相』より #2

2022/05/25

source : ノンフィクション出版

genre : ニュース, 社会, 読書

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若頭暗殺事件

 山口組をウオッチしてきた前出の警察庁幹部OBが当時の状況を解説する。

「警察の取り締まり強化、損害賠償請求訴訟などで次第に渡辺が動揺するようになり、求心力が失われていった。当時の山口組の組織運営は、宅見、桑田、司の3人の、いわば『ニューリーダー集団』が行うようになっていた。その結果、渡辺の意向が重くみられることはなくなっていた。元々は(同じ山健組出身の)身内であった桑田でさえ、渡辺に対して懐疑的な見方をしていたことが窺えた」

 執行部内で隙間風が吹き始めたころ、白昼堂々の衝撃的な事件が発生した。前述したように1997年8月28日、神戸市のホテル内の喫茶店で宅見が射殺されたのだ。宅見が山口組本部長で岸本組組長の岸本才三、副本部長で吉川組組長の野上哲男と談笑していたところ、中野会系の組員に襲撃されたのだった。流れ弾で歯科医の男性が巻き添えになっていた。

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 5代目山口組執行部は宅見の葬儀が終了した8月31日夕、渡辺ら最高幹部が神戸市の総本部に集まり、中野会会長の中野太郎の処分を決める会議を開催した。複数の幹部は最も重い永久追放となる「絶縁」を主張したが、同じ山健組出身ということもあり、渡辺の裁定で、復帰の余地を残す「破門」の処分とした。

 一方、警察庁は9月1日、神戸市の兵庫県警本部で大阪府警など担当の捜査幹部らを集めて緊急の対策会議を開催した。

都道府県警の暴力団対策

 警察庁の担当課長が「山口組は、宅見という司令塔を失って組織が揺れている。分断、解体には絶好の機会。組員の動向の把握や情報の収集、報復などの防止、積極的な事件の摘発」を指示した。

 意識不明の重体となっていた歯科医は9月3日に死亡が確認された。すると、5代目山口組は中野の破門処分を取り消し、絶縁の処分とした。復帰することは決して許されず中野は永久追放となった。

 翌4日以降は全国各地で、宅見組を中心として中野会に対する報復事件が続発することとなった。5代目山口組内部での対立抗争状態となっていった。

 宅見射殺事件は、前年の京都での中野太郎銃撃事件が伏線となったとみられている。1996年7月、京都府八幡市の理髪店で散髪中の中野を会津小鉄会の組員2人が銃撃して殺害しようとしたのだった。しかし、中野のボディーガードが返り討ちにして襲撃犯の2人を逆に射殺した。

 中野銃撃にわびを入れてきた会津小鉄会との窓口役を担っていたのが宅見だった。宅見は5代目山口組として会津小鉄会の謝罪を受け入れたのだが、中野にはこうした動きについて知らせていなかった。

 当然、中野としては謝罪を受け入れる気はなく、ウラで動いた宅見についても不信感や不満を抱くこととなった。

 そもそも、宅見ら執行部の最高幹部たちが、組長の渡辺をないがしろにしている気配を察知しており、渡辺の親衛隊を自称していた中野としては愉快な気分とは言いがたかった。こうした一連の事情から中野は宅見の襲撃を決めたのだろう。

 だが、この事件は一般市民を巻き添えにしたことで、警察当局の取り締まりを強めることとなった。そして、渡辺と最高幹部との間に決定的な溝を生んだ。渡辺の指導力はだんだんと失われていった。宅見殺害後の山口組は8年間にわたり若頭が不在となり、迷走していく。

山口組分裂の真相

尾島 正洋

文藝春秋

2022年5月25日 発売

「山健組にあらずんば、山口組にあらず」“武闘派”だったはずが…求心力を失う一因となった5代目山口組組長の“動揺”

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