2015年8月、国内最大の暴力団組織「6代目山口組」が分裂した。離反側は「神戸山口組」を結成し、2022年の今なお両者の対立抗争状態が続いている。
ここでは、ノンフィクションライターの尾島正洋さんが山口組分裂の裏側に迫った『山口組分裂の真相』より一部を抜粋。5代目山口組組長・渡辺芳則が求心力を失い、山口組が迷走していく背景を紐解く。(全2回の2回目/前編を読む)
◆◆◆
「山健組にあらずんば、山口組にあらず」
山口組の5代目時代を象徴する言葉として、暴力団幹部だけでなく、警察当局の幹部たちの間でもいまだにこう語り継がれている。
「山健組にあらずんば、山口組にあらず」
6代目山口組から分裂した神戸山口組の中核を担うのが、この山健組だ。その言葉通り、特に5代目時代の1990年代、山健組の支配力は圧倒的だった。
山健組は3代目時代、10年以上にわたり山口組若頭を務めた山本健一によって創設された。その後、3代目の田岡が1981年7月に死去すると、山本が4代目の最有力候補だったが、翌年死去した。
山本が若頭在任中の1978年11月、後に5代目山口組組長となる渡辺芳則の名を高からしめるきっかけとなる事件が起きた。
京都市内のクラブで寛いでいた田岡が、大阪の博徒組織「松田組」の組員によって銃撃されたのだった。山本は即座に松田組に対して報復に出る。当然のように山口組傘下の各組織も一斉に攻撃に参画した。松田組とはかねてから対立抗争事件が繰り返されており、この抗争は「第3次大阪戦争」と呼ばれた。
これに渡辺芳則も自ら創設した組織「健竜会」を率いて参戦していたのだ。健竜会は「団結、報復、沈黙」をスローガンに掲げ、第3次大阪戦争では「武闘派」として大きな存在感を示した。山口組は圧倒的な力を見せつけて第3次大阪戦争を終結させた。
渡辺はすでに山健組ナンバー2の若頭に就任していたこともあり、確固たる地位を築いていた。山本から目をかけられていた渡辺は、山健組の2代目組長の座を継いだ。
田岡の死去後、4代目山口組組長の後継をめぐり、一部グループが離脱し一和会を結成。山一抗争へと突入した。4代目組長の竹中正久が1985年1月に殺されたが、山口組側の攻勢の末に一和会は解散した。一和会の山本広と会談し、山本の引退と一和会の解散を誓約させたのは、当時山口組若頭の渡辺だ。
そして1989年4月、渡辺は5代目山口組組長に就任した。すでに時代は昭和から平成に変わっていた。実力者として名を馳せていた山口組若頭補佐で宅見組組長の宅見勝や、山口組本部長で岸本組組長の岸本才三らに支えられる形での就任だった。