「5代目裁定」が生んだ怨念
当初、5代目山口組の執行部は5人体制だった。ナンバー2の若頭に宅見勝、ナンバー3の本部長は岸本才三、そして若頭補佐には芳菱会会長の滝沢孝、弘道会会長の司忍が就任した。
2年後の1991年7月になると、若頭補佐に渡辺の跡を継いで3代目山健組組長の座に就いていた桑田兼吉と、中野会会長の中野太郎が昇格し、執行部は7人体制となった。
中野会は元々、山健組傘下の3次団体だった。桑田と中野が同時に昇格したため、山口組内では次第に山健組出身者が幅を利かすようになる。そのうえ中野は、「渡辺組長の親衛隊」を名乗るほどのシンパだった。
バブル景気で暴力団業界も潤っていたため、5代目山口組の発足時は、直参と呼ばれる直系組長が100人以上、勢力はほぼ全国に及んでいた。バブル景気は1989年末にピークを迎えたが、年が明けた1990年から株価は下落を始める。後になってバブルの好景気は199 1年2月までだったと認定された。これを境に長期の景気低迷期に入る。
「バブルの崩壊」は暴力団業界にも押し寄せた。すると、様々な業界に進出していた5代目山口組の傘下組織の間で、シノギの現場がバッティングする事態が次第に生じるようになってきた。
2次団体の幹部同士の間では解決できない案件は最高幹部の間での話し合いになる。それでも交渉や話し合いが成立しない場合は、5代目組長の渡辺の手で解決が図られるようになっていた。
山口組の動向を長年にわたり注視してきた警察庁の幹部OBが当時を振り返る。
「シノギがバッティングしたというトラブルが渡辺に持ち込まれると、渡辺は出身母体の山健組に有利となるよう裁定を下すことが多かったようだ。シノギから外された側は組長の裁定だから従うしかないが、後々しこりとして残る。そこで怨念が生まれる。怨念の原因はこうした『5代目裁定』だ」
山口組の内部事情に詳しい指定暴力団幹部が解説する。
「例えば、大規模な不動産開発があった場合、地域住民への迷惑料として地元対策費などが予 算化される。当然ながら、総工費が大きければ対策費も大きな額になる。その案件を偶然にも、山健組の枝の組織と弘道会の枝の組織がシノギにしようと狙っていたとする。すると(組長の渡辺は)出身母体の山健に有利になるよう決定していたようだった。
さらに、同じシノギをめぐって、山健組側が『これは5代目(組長の渡辺)の意向だ』と主張し、相手を退かせたという話はいくつか実際に聞いたことがある」
こうした「5代目裁定」や「5代目の意向」という事態が重なれば、他の組織からは皮肉交じりに「山健組にあらずんば……」といった声が上がるようになる。