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「山健組にあらずんば、山口組にあらず」“武闘派”だったはずが…求心力を失う一因となった5代目山口組組長の“動揺”

『山口組分裂の真相』より #2

2022/05/25

source : ノンフィクション出版

genre : ニュース, 社会, 読書

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圧倒的なネームバリューの山健組傘下組織

 5代目山口組体制の発足後は、山健組が最大派閥として事実上支配していた。その山健組傘下の組織のなかでも、5代目山口組組長の渡辺が創設した「健竜会」が名門とされる。健竜会はその後も、山健組の歴代組長を輩出しているからだ。

 このほかに、盛力(せいりき)健児が率いた「盛力会」や太田守正の「太田会」、橋本弘文の「極心連合会」などが山健組傘下の有力組織として知られていた。いずれも後に山口組の直系組長である直参として昇格している。

 前出の山口組の事情に詳しい指定暴力団の幹部が、当時の山健組について語る。

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「5代目山口組時代には、山健組が圧倒的な地位を占めていた。それは山口組内だけでなく、ヤクザの業界全体でもそうだった。さらに山健の下の組織であっても知名度は圧倒的だった。例えば、初対面の人に名乗る際には『山口組の○○組の』となるが、山健傘下の組織は山口組とも、山健組とも言わずに、いきなり『健竜会の』、『盛力会の』、『太田会の』と名乗る。それほどヤクザ業界では名が通っていた」

 当時の健竜会、盛力会、太田会は、警察当局の用語で言えば3次団体になる。それでも知名度は1次団体並みだったという。当然、それぞれの組織の構成員も数百人に上っていた。

使用者責任追及に動揺する5代目組長

 山健組という圧倒的な勢力をバックにした渡辺だったが、カリスマ性で組織を率いた3代目組長の田岡とは違い、率先して強いリーダーシップを発揮する存在ではなかった。その背景には、宅見組の宅見勝や岸本組の岸本才三ら当時の最高幹部たちの根回しや多数派工作で組長の座に就いたことがあった。さらに渡辺は、ナンバー2である若頭の宅見よりも4歳年下だった。事実上、集団指導体制というのが実態だった。

 しばらくは順調な組織運営が行われていたが、その後の指導体制に綻びを生じさせるきっかけとなる事件が起きた。

©iStock.com

 1990年6月、福岡市で5代目山口組弘道会系組員が暴力団「波谷(はだに)組」系組員に射殺された。当然ながら弘道会は波谷組への報復に出た。報復が繰り返されるなか、大阪市内で弘道会 系組員が、波谷組系組員と間違えて全く無関係の一般市民の男性を射殺してしまったのだった。被害者男性は引っ越してきたばかりで、現場となった住宅には以前、波谷組系組員が住んでいた。

 この誤射殺事件の後も「山波抗争」と称された対立抗争は、この年の12月まで続き、発砲事件など27件が相次ぎ2人が死亡、4人が重軽傷を負った。

 対立抗争の発生から5年後、大きな動きがあった。間違えて射殺された男性の遺族が、組長としての「使用者責任」を追及するとして、渡辺らを相手取って約1億2600万円の損害賠償請求訴訟を大阪地裁に起こしたのだった。渡辺は警察当局以外からも法的責任を追及されることになった。この訴訟について渡辺は周囲の予想以上に動揺を示し、後に求心力を大きく失う一因となる。