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エジプトにあった「去勢手術ギルド」

 前述したように、イスラム法の規定では、宦官の施術は、イスラム世界の外側でなされねばならなかった。

 そのため白人宦官を作るための手術は、伝統的には、イベリア半島南部やフランス北部で行われた。しかしオスマン帝国においては、脱法的に、帝国領内で施術されたと考えられる。

 黒人宦官の供給元は、東アフリカ、とくにキリスト教国であるエチオピア王国であった。エジプトに「去勢手術ギルド」があり、大々的に施術を行っていたという記録もある。エジプトはイスラム世界の内側であるから、やはりこれも脱法行為であった。

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 宦官の施術に適するとされた年齢は、8歳から12歳のあいだだった。性的欲求を感じる前が適切だと考えられたからである。

 去勢には、睾丸のみ摘出するやり方と、陰茎と睾丸の両方を取り除くやり方があった。前者であれば陰囊を切り開いて睾丸を摘出し、後者であれば鋭い剃刀で陰茎と陰囊を一気に切り落とす。

 オスマン帝国の宦官制度に影響を与えたと考えられるビザンツ帝国の宦官は、睾丸のみ摘出されていたから、最初期のオスマン帝国の宦官はこれと同様だったと考えられる。しかし、のちに全切除による去勢が一般的となる。

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 これがなぜ、いつごろ変化したのかははっきりしない。16世紀のギリシア系イタリア人であるスパンドゥーネスの著作によれば、あるときメフメト2世は、去勢された馬が驢馬(ろば)と交尾をしようとしているのを見た。すなわち、去勢が十分ではなかったのだ。そのためメフメト2世は、宦官の去勢も、徹底的なかたちで、つまり全切除で行うように命じたという。ただし、スパンドゥーネスの伝える逸話は荒唐無稽なものも多いから、参考程度にしておくべきだろう。

 全切除の場合、尿道の詰まりと化膿は、術後に生ずる危険の最たるものであった。そのため、傷が癒えたときにふさがらないよう、尿道に金属の棒が挿入され、また化膿を防ぐために、手術は涼しい季節に行われた。とはいえ抗生物質のない時代、手術の死亡率は非常に高く、およそ半数、熟練した術者の手であっても4分の1が死亡したという。このため宦官は高価な商品となり、通常の奴隷より、およそ2倍から3倍の価格で取引された。