出世はしたい。しかし、そのために男性器を切り落とさないといけないとしたら、どうするか──。かつて、そのような試練を乗り越えて、オスマン帝国で巨大な権力をふるった男性がいた。

 なぜ男性器を切り落とさなければいけなかったのか。そして、男性器を切り落とすことにどのようなメリットがあったのか……。ここでは、トルコ史の研究者で、九州大学准教授の小笠原弘幸氏の著書『ハレム:女官と宦官たちの世界』(新潮選書)より一部を抜粋し、知られざる世界の慣習について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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帝国最大の白人宦官長

 宦官とは、男性器を切除された男性である。生殖能力を制限されている彼らは、ハレム(イスラム世界における女性の居室)に住まう女性たちや、内廷で働く小姓(編集部注:君主の身の回りを世話する将来のエリート候補生)たちの管理者として働いた。小姓は男性であるが、成人する前は性的な対象となりえたから、性的搾取の恐れなく少年たちを監督するために、宦官が必要とされたのだ。

 ハレムや内廷という帝国の中枢部を管理していた宦官のなかには、国政に大きな影響力をふるった者もいた。内廷を管理していた白人宦官のうち、もっとも権勢を誇ったのがガザンフェル・アアである。ヴェネツィア出身の彼は、セリム2世、ムラト3世、そしてメフメト3世という3代のスルタン(編集部注:イスラム世界における君主)に仕えた。

 1559年、あるヴェネツィア人の夫人とその子供を乗せた船が、アルバニアのブドゥアを目指していた。しかしこの船は、オスマン海賊によって拿捕され、彼女は子供たちともども捕虜になってしまう。彼女は、自分自身と娘ふたりの身代金を払うことで解放されたが、息子ふたりの解放はかなわなかった。彼らは奴隷として売られることになる。

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 しかし、これは彼らの栄達の道の始まりであった。

 ふたりの息子は、このとき7歳から9歳くらいだった。彼らは、見目麗しさと優秀さを認められたためであろう、セリム王子に仕えることになる。イスラムに改宗してムスリム名「ガザンフェル」と「ジャフェル」を名乗るようになった兄弟は、セリムの側近となった。

 1566年、スレイマン1世が、ハンガリーの要衝スィゲトヴァールを攻略中に死去する。大宰相ソコッル・メフメト・パシャは、スルタンの死を秘したままスィゲトヴァールの攻略を成し遂げ、新王となるべきセリムに使いを送った。駆け付けたセリムは、新スルタンとして即位し、セリム2世を名乗ることになる。