宮廷に入った兄弟はともに内廷に職を占めたが、とくにジャフェルは、スルタンの私室頭に就任している。スルタンの私室を管理するこの役職は、白人宦官長に次ぐ高位である。このことから、ジャフェルがセリムの寵愛と信頼を受けていたことがわかる。しかし、やはり予後は良くなかったのだろうか、まもなくしてジャフェルは死去し、兄弟の地位はガザンフェルが継承した。
セリム2世のあとを継いだムラト3世にも、ガザンフェルは重用された。とくに、ムラト3世の母后ヌールバーヌーは、ガザンフェルを右腕としたことで知られる。母后の後ろ盾を得たガザンフェルは1581年、白人宦官長に就任する。以降、1603年に死去するまで20年以上のあいだ、ガザンフェルはこの要職を独占するのである。
ガザンフェルの活躍
ムラト3世、そして彼を継いだメフメト3世の宮廷において、ガザンフェルは隠然たる影響力をふるった。ハレムの奥深くにこもるムラト3世に上奏するには、ガザンフェルに取り次ぎを頼まねばならなかったからである。
ガザンフェルの活動は宮廷にとどまらなかった。彼は、スレイマン1世以来久方ぶりに親征したメフメト3世に付き従って、その進退を左右する重要なアドバイザーの役割を担ってもいる。
白人宦官長は、宮廷関係者の宗教寄進を統括する立場にあり、その実入りも莫大であった。そのなかでもっとも重要なのが、イスラムの聖地メッカとメディナにかかわる宗教寄進である。この両聖都の運営のため、オスマン帝国各地で大規模な財源が宗教寄進に設定されていたのだ。
宗教寄進は、同時にその統括者にも実入りをもたらすものであった。それによって得た財力を背景に、ガザンフェルは自身も宗教寄進を多数、設定している。そのなかでももっとも有名なのは、イスタンブルの水道橋に隣接したガザンフェル・アア学院である。
彼の財力はまた、芸術家のパトロンになることを可能にした。多くの詩人・文人が、彼のために作品を献呈している。
ヴェネツィアのネットワーク
ガザンフェルの経歴を異色なものにしているのは、彼がヴェネツィア人とのネットワークを築いていたことである。
まず彼は、1582年と1590年の2度、母をイスタンブルに招聘している。彼女はイスタンブルのヴェネツィア領事の館を訪れ、ヴェネツィアとガザンフェルのあいだを取り持った。ただ、彼女はイスラムに改宗することはなかったようだ。
ガザンフェルの妹であるベアトリーチェは、ヴェネツィアで結婚し子供をもうけていたが、1591年、イスタンブルに赴いたさいにイスラムに改宗した。夫との不和が理由だったともいう。彼女はファトマと名乗り、兄が宮廷外にかまえた館──彼自身は住んでいなかったが、100名以上の男女の奴隷がそこで働いていた──に移り住んだ。
1593年には、ガザンフェルはこの妹の再婚を世話している。婿となったアリ・アアは、宮殿の門衛などを務めていた人物であったが、ガザンフェルのコネによって、イェニチェリ軍団長官にまで出世することになる。
甥のジャコモも、ガザンフェルの築いたネットワークの一員である。ヴェネツィア在住だった彼は、1600年、ガザンフェルの命令によって拉致され、イスタンブルに連れてこられた。ムスリムに改宗し、メフメトの名を得た彼は、内廷でスルタンに仕えるようになる。
こうしてヴェネツィアとのつながりを保ち続けたガザンフェルは、「ヴェネツィアで生まれたこと、ヴェネツィア人がイスタンブルで敬意を払われていることに誇りを感じる」と語りすらしたのだった。