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反乱者たちに捕まり、門の前に転がった首

 ガザンフェルの栄華に陰りが見えたのは、世紀末の1600年である。このころオスマン帝国は、ハプスブルク帝国との通称「長期戦争」のただなかにあった。1593年よりはじまったこの戦いは、一進一退の攻防がつづき、オスマン帝国の軍事と財政に大きな負担を強いた。

 オスマン政府は貨幣の価値を落として改鋳することで財政危機に対抗したが、給金が実質的に低下したことを不満とした常備騎兵たちが1600年、騒乱を起こしたのである。

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 17世紀を通じて頻発する首都騒擾の端緒をなすこの事件は、母后サフィエの側近を務めていたユダヤ教徒女性がスケープゴートとなって惨殺されるという結末を迎えた。ガザンフェルも批判の対象となったが、このときは難を逃れることができた。

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 西方でハプスブルク帝国と戦っているさなか、東方のアナトリアでは、ジェラーリー反乱と呼ばれる地方騒乱が頻発していた。長引く戦争を原因の一端とした社会不安が、帝国全土に影響を与えていたためである。

 その鎮圧に、ガザンフェルが推薦したヒュスレヴ・パシャが任命された。ヒュスレヴは白人宦官だったから、同じ宦官のよしみであったろう。しかし、ヒュスレヴはこの任務に失敗する。1603年の新年早々、この不首尾を不満として常備騎兵がふたたび騒乱を起こすと、責任者としてガザンフェルの処刑が要求された。

 ガザンフェルは1月6日、黒人宦官長オスマン・アアとともに、反乱者たちに捕まり斬首された。ガザンフェルとオスマンの首は、「白と黒の硝子玉のように」至福門の前に転がされたという。

 宮廷の陰の実力者として権勢を極めたガザンフェルであったが、帝国の構造的変化を原因とした反乱には無力だったのである。以降、彼ほどの権勢を持った白人宦官長は、二度とあらわれることはなかった。

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