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 一方でもし北朝鮮がこれを拒否すれば、我々は彼らの脅威を封じ込めるため必要な措置をとっていくという両睨みの政策を提言している。

 この報告書が提出される前の時点で、米朝協議を経て専門家が金昌里の疑惑施設を訪問している。その結果、99年6月に米国は、この施設が「合意された枠組み」に違反していないとの報告を発表した。つまり疑惑はシロだったのである。また同年9月の米朝協議の結果、米国が対北朝鮮制裁の一部緩和を発表すると、北朝鮮は米朝高官協議が続いている間はミサイルを発射しないと発表する。米朝関係は緊張緩和に向け動き出した。

 その後、2000年に入ると10月には金正日の特使として趙明禄(チョンミンノク)国防委員会第一副委員長がワシントンを訪問し、オルブライト国務長官、クリントン大統領と会見する。その結果、根本的な関係改善のために措置を取ることなどを内容とした「米朝共同コミュニケ」を発表するに至る。

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 その直後、オルブライト国務長官は果たしてクリントン大統領の訪朝が可能かどうか見極めるため、平壌を訪問する。最大の問題はミサイルである。ミサイルについて満足いく合意がなされない限り、米朝首脳会談を行うことはできない。

 オルブライトとの会談で金正日はミサイル問題に関し、目的は衛星の打ち上げであるとして「もし他の国が我々のために衛星を打ち上げてくれれば、ミサイルを開発する必要はない」と主張する。また、ミサイルの輸出は金もうけのためであるとして「もし米国が輸出で失う額を補塡してくれるなら中止する」と述べる。すでに配備されたミサイルについては「何ができるかわからない」と否定的であった。オルブライトは後に、最も難しかったのはすでに配備されたミサイルの扱いと検証の問題であったと自叙伝に書いている。

 配備されたノドン・ミサイルの撤去を重視したのは他でもない日本である。こうして、北朝鮮側の対応が十分ではなかったため、また、中東和平交渉が佳境に入っていたこともあり、クリントン政権は米朝首脳会談を断念するのである。

7年半ぶりの日朝国交正常化交渉――小泉訪朝への下地

 1998年6月に北朝鮮赤十字が、日本人行方不明者は発見されなかったとする調査結果を発表した。その後、8月にはテポドン・ミサイルが発射されたことを受け、制裁措置が取られたことから日朝関係は停滞する。

 しかし99年に入り、動きが出てくる。まず1月、日本政府は北朝鮮がミサイル発射や秘密核施設疑惑をめぐる国際的な懸念を解消し、なおかつ拉致疑惑をはじめとする日朝間の諸懸案の解決に建設的な対応を示すのであれば、対話と交流を通じ、関係改善を図る用意があると呼びかけた。

 その後北朝鮮は8月、対日関係に関する政府声明を発出する。この政府声明は彼らが言う過去の日本の蛮行と、それを謝罪し補償しようとしない日本側の姿勢を厳しく糾弾することに行数を多く割いている。

 しかしポイントは最後の数段落で、「日本が朝日関係の厳重な現事態をそのままにしては、絶対に21世紀に無難に入ることはできない」とし、「我々はこの問題解決を無限定に座して待っている、あるいは放任しておくことはない」と述べている。このことは、北朝鮮側が今世紀中の日朝国交正常化を強く求めていることを意味している。

2004年に訪朝した際の小泉元総理 ©文藝春秋

 そして「我々は日本が過去の清算を通じる善隣関係の樹立に進むならば、それに喜んで応じる」としている。北朝鮮は日本との関係改善に急いでいる。彼らのメッセージは明確であった。当時、日朝双方に、今世紀中に過去の清算と新しい関係の樹立を求める意見と動きが出ていたのである。

 日本政府もこの機会を失うまいと努力した。政府間の水面下の接触が続けられていた。関係改善の糸口として、日本政府は99年11月、テポドン・ミサイル発射を受けて発動していた制裁措置の一部である北朝鮮へのチャーター便運航を解禁する。さらに翌12月、国交正常化と食糧援助の凍結を解除する。情況をテポドン・ミサイル発射の前の時点まで戻したのである。