2022年は、歴史的な「小泉訪朝」から20年の節目となる。それまで拉致被害者の存在を頑なに否定していた北朝鮮当局と金正日がこれを認めて謝罪し、一部被害者の方の帰国が実現したことは、多くの人々の記憶に焼き付いていることだろう。

 ここでは、1990年の金丸訪朝から2002年、04年の2度の小泉訪朝までの北朝鮮外交に従事した外交官・山本栄二氏の著書『北朝鮮外交回顧録』(筑摩書房)から一部を抜粋。1990年代、日本国内で北朝鮮に対する世論が悪化していく経緯を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く

©iStock.com

◆◆◆

ADVERTISEMENT

無関心から敵対へ――拉致問題・テポドン発射・不審船

 1990年代中盤まで日本国民の北朝鮮に対する関心はさほど高くなかった。無関心が支配するなか、あるときは一部政党や政治家が、あるいは外務省が関心を持ち、国交正常化交渉を進めたり人道支援を供与したりしてきた。その裏には常に北朝鮮側の働きかけもあった。

 ところが1997年以降、北朝鮮に対する日本の関心は高まり、否定的な世論が高まる。代表的な動きとして1997年の拉致問題の浮上、1998年のテポドン・ミサイルの発射、1999年の不審船の出現が挙げられる。これらはいずれも北朝鮮による行為がきっかけとなり、同国に対する世論を悪化させた。

 拉致問題とは、1970年代後半に日本海沿岸や鹿児島県の海岸で日本人が相次いで行方不明になった事件である。すでに述べた通り、1988年に国会で取り上げられたこともあり、当時すでに北朝鮮による拉致の疑いが出てきていたが、日本国内の関心は低かった。拉致問題が一挙に国民の関心を集めるようになるのは、97年初めに実名で横田めぐみさんの拉致疑惑がマスコミに報じられるようになってからである。その背景には当時、北朝鮮からの亡命者が急増し、拉致問題に関する情報が彼らの口から漏れ伝わってきたということがある。

 高まる世論の関心を受け、いわゆる家族会、拉致議連、救う会といった被害者家族組織・支援団体が次々と設立される。これまで一部の保守系新聞や雑誌が取り上げてきたに過ぎないこの問題が、全国的な広がりを持ち始める。そして政府は97年5月、7件10名を拉致被害者として認定するに至った。

 この頃から、日朝関係を重視する政治家に対して拉致問題に弱腰で北朝鮮に甘いとの批判が強まり、北朝鮮に対する一方的な人道支援は許さないという世論が高まっていく。政府、外務省もこのような厳しい世論の中で、対北朝鮮外交の再調整を強いられていく。

 日本国民の北朝鮮に対する認識を徹底的に悪化させたのは、98年8月31日正午頃に発射されたテポドン・ミサイルであった。ミサイルの1弾目は日本海に落下し、日本列島を飛び越えて2弾目が三陸の遥か沖に落下し、弾頭はさらに遠くまで飛んだ。ミサイルが国土に落ちる可能性もあったことを知った国民の怒りは心頭に達する。北朝鮮は人工衛星の発射であると弁明したが、そんなことを信じる者は誰もいない。